報道のあり方を考える
広告
連日のように目にする、石川県能登半島沖のニュース。
1月1日の最初の地震があった時から約3週間ほど経ったいま、少しずつ被害の全貌が明らかになっていく一方、未だ行方不明となっている人、瓦礫の下に閉じ込められたままの人も多くいる。
先日、出張帰りの空港ロビーに設置されたテレビ画面では、行方が分からなくなっている方の名前が、一人ひとり(現時点で確認できている範囲内であるが)丁寧に読み上げられていた。
地震で崩れた家々のようす、火災、津波で跡形もなくなってしまった街、茫然と立ち尽くす人、人、人…
ニュースから流れてくる情報は、目を覆いたくなる、それでも目を伏せてはいけない現実だ。
そのような中、こんな記事も目にした。
〈1.1大震災〉避難所に勇気の言葉 七尾・石崎小、新学期は「未定」(北國新聞、1月10日)
おいしかった炊き出しは? 子供たちの手書き新聞に避難所ほっこり(毎日新聞、1月10日)
避難所に「子ども部屋」 被災高校生が手助け―能登地震(時事ドットコム、1月11日)
避難所となった学校で励ましの言葉をかけ合う小学生、他の被災者を勇気付けようと手書き新聞を作った子どもたち、避難所の子ども部屋の運営を手伝う高校生…この子らは皆、自らも被災している。
どれほど怖かっただろう。いや、今も怖いだろう。
でも、前を向いて「今、できること」をする。懸命に立ち上がり、生きている。うんと幼い子どもたちが。
これだ、と思った。
惨事をありのままに伝えることは絶対に必要だ。先にも書いたが、目を伏せたくなっても事実は事実。現実は現実だからだ。
しかしその報道が、人々の不安を不必要に煽ることとなっては本末転倒ではないか。
だからこそ、現場でしか見えない小さな小さな光―この子どもたちのような―を見つけ、世に広げること。懸命に生きる人たちの声を、姿を届けること。そうして社会を創造していくこともまた、記者に求められているのだと思う。
報道の仕事に携わる者として、改めて考え、学ぶこととなった。(鳳)