能登半島地震―被災地取材レポート
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1月1日に石川県の能登半島地方を襲った大地震。1月31日現在で、死者236名、安否不明者も17名いる。
石川、福井、富山、新潟の4県に住む在日同胞の中で人命被害はなかったが、家屋および店舗の損壊や家具・食器類が倒れたり壊れたことによる室内の散乱などの被害が発生した。総聯中央の集計によると、家屋損壊などの被害が確認されたのは14戸。もっとも被害の大きかった能登半島地方の輪島市、七尾市などでは上下水道が被害を受けたことによる断水が現在も続いていて、同胞住民たちの生活にも支障が生じている。
石川県を中心に甚大な被害をもたらした今回の地震を受けて、総聯中央は現地に支援隊を派遣し、7日から11日まで第1次の被災同胞支援活動を展開した。19日から第2次支援活動が始まったのに合わせて私も現地入りし、支援活動に同行しながら取材を行った。
同胞の被害状況と現地での支援活動の概要については、すでに朝鮮新報に記事を書いた。
https://chosonsinbo.com/jp/2024/01/25-126/
https://chosonsinbo.com/2024/01/25-167/
今回のエントリは、金沢、七尾、輪島と富山を回っての被災地レポート。
19日に金沢入りし、翌20日に七尾市を訪ねた。金沢から約70キロ、能登半島中心部にある市だ。
市内で飲食店を経営する金龍沢さん(59)は現状について次のように語った。「一番不便なのは断水。飲み水は行政からの供給を受けたりお店で買ったりできるが、生活用水の確保が問題だ。トイレにも一苦労で、お風呂にも入れずにいる」。経営する飲食店の営業再開の見込みは立っていない。家族は福井の実家に避難中だ。金さんは、近所に住む高齢の母親の面倒を見ながら、正常な暮らしが戻る日を待っている。
5年前に母親を亡くし、現在独り暮らしだという金日東さん(75)の自宅は、瓦が落下した屋根に応急処置のブルーシートがはられていた。地震で自宅裏手の塀のブロックが崩れて道路側に散乱し、道をふさいでいたが、散乱したブロックは第1次支援隊によって片付けられていた。地震によって散乱した室内は片付けが進んでいない状態だった。「余震が続いているし、いつまた大きいのが来て散らかるかわからないので、片付けていないんだ」。そう語る金さんの自宅も断水中。飲料水はある。問題は生活用水だという。「地震が怖い。夜もぐっすり寝られない日々が続いている」。金さんは不安な胸の内を吐露した。
大阪出身で、市内で焼肉店を営む50代男性の店舗兼自宅を訪ねると、本人は不在で、夫人が応対してくれた。天井や壁など家屋が被災し、断水中のためお店も休業中。1階の店舗スペースに布団が敷いてあった。ここで寝起きしているという。「来てくれてありがとう。私たちは大丈夫だから」。夫人は気丈に話していたが、不安な心情と地震被蔡害の爪痕がありありと見て取れた。
土木会社を経営する朴正光さん(84)・蔡淑子さん(80)夫婦の家は、浴室のタイルと壁に少しひびが入り、戸の締まりが悪くなったほかは大きな被害はなし。応対してくれた崔淑子さんは、地震とその後の余震で精神的にまいってしまい、数日間寝込んでいたが、今は回復したという。水の問題も井戸水があるので心配ないという。庭の一角にある井戸水が湧き出る場所を案内してもらった。水のありがたみをあらためて実感した。
七尾市内を回って訪ねた人々に、「いま最も困っていること」をたずねると、「水」という答えが一致して返ってきた。七尾市は市内の6割を超える世帯で水道復旧が4月以降になるとの見通しを示している。市によると、全世帯2万1779戸のうち21日時点で水道が使える世帯は5031戸(23・1%)。3月末まででも8152戸(37・4%)しか使えない見通しで、井戸水などが使える世帯を除いた1万3122戸(60・3%)の復旧は4月以降になりそうだという。断水状態が長引くにつれて、地域経済の悪化も懸念される。水道は命にも関わる重要なインフラだ。飲料や食事、トイレや洗濯、お風呂にも欠かせない。七尾市内の被害は外見上はニュース映像で見た輪島市や珠洲市などと比べると軽微だったが、断水は人々の暮らしに重大な影響を及ぼしている。
22日には被害が最も甚大だった地域の一つ、能登半島北部の輪島市を訪れた。
海岸沿いの道を使えば金沢から2時間あれば着くというが、被害を受けた道路がまだ復旧されておらず通れないということで、内陸の山道を通る迂回ルートを進んだ。七尾から上の地域はほとんどが断水中。トイレのことを考えて、朝から水分や食事をほとんどとらずに現地へ向かった。
七尾市を過ぎると、徐々に道路状況が悪くなった。地震初期の頃と比べると、だいぶ整備されたというが、亀裂、隆起、陥没多数で状態は劣悪。倒壊した家屋が道路上にはみ出している場所もあった。それらを縫うようにして進んだ。途中休憩もあったが、4時間半かけて輪島へ到着した。
市内の全域で倒壊家屋多数。人通りも少なくなった街の中を進み、火事があった輪島朝市に着くと、建物、車両、電柱、あらゆるものが焼きつくされていた。13年前の2001年に東日本大震災の被災地を取材した際、地震と津波、火災によって街の一角が丸ごとなくなっている現場を見たことがあるが、それと同様の光景が広がっていた。
規制線がはられた現場で、亡くなった方々に手を合わせた。
輪島訪問の目的は、不明だった同胞男性の安否を確認すること。経営する飲食店の近くで聞き込みして、本人の居所を探す。ほどなくして本人の自宅がわかり、家族ともども安否を確認することができた。
もう一人、市内で飲食店を経営する同胞も、避難所での生活を経て、自宅へ戻っていた。現状を聞くと、しばらく金沢市内の親族のところに身を寄せるのだという。
明るいうちに出発しないと帰路も苦労すると聞いていたので、1時間あまりの滞在ののち、輪島をあとにした。(相)