海老名香葉子さんと東京大空襲
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1945年3月の東京大空襲で、両親はじめ家族6人を失った海老名香葉子さん(90、エッセイスト)が中心となり、毎年開催されてきた20回目の「時忘れじの集い」が3月9日、東京・上野の寛永寺輪王殿の慰霊碑「哀しみの東京大空襲」と上野公園・いこいの広場の「母子像」前で行われ、多くの市民が海老名さんの壮絶な戦争体験に聞き入った。
海老名さんは、小学校5年だった11歳の時に戦争孤児となり、以来数々の苦労を重ねてきた。
落語家の林家三平さんと結婚、おかみさんとして一門を切り盛りしつつ、犠牲者10万人以上と言われる東京大空襲の体験と、戦争の悲惨さを訴えている。「母子像」は2005年に建立された。
90歳になった今も、ウクライナ戦争に心を痛め、2023年には平和を願う歌「ババちゃまたちは伝えます」を作詞。優しいメロディーがついた歌は、英語、朝鮮語、中国語で歌われている。
「母子像」前での集いは、肌寒い天気のなかでの開催となった。主催者を代表して発言した一般社団法人「時忘れじの集い」代表の海老名さんは、周りの支えを借りながら登壇し、自らの体験を約30分にかけて切々と伝えていた。
敗戦を疎開先の静岡県沼津で迎えた海老名さんは、親戚から「かよちゃん、東京へ帰ってくれない?」と言われ、焼野原となった東京へ。
「『父ちゃん、母ちゃん、みんなー』と言ったきり、声が出ない。そこから私が生きる闘いが始まりました。
何年も何年も家族を探し続けました。死亡者名簿を探して、探して…。
(空襲で)丸焦げになった人や川に落ちた人は、死亡者名簿に名前が載りません。いくら探してもないはずです。…本所一帯を運動靴で捜し歩き、靴が破れると手ぬぐいを巻きながら、望みを託しながら2,3年ずっと探し続けました。あきらめられません。どこかで生きているのではないかと…。
大人たちは罹災証明をもらえましたが、子どもたちはもらえません。親戚の家を転々とし、おばさんの家では3人の男の子の面倒を見ました。(他の親戚の家でも)『余計な子が生きていて』と言われ…どこも針のむしろのようでした。やさしいおばさんたちが…。どこへ行っても苦しかった。
食べるものは何もなかった。水はいくらでも飲めたので、どんぐりの粉を闇市で買ってきて、それを水で溶かしてすすると、体中がしびれて…。
戦争は本当にむごい。
焼夷弾の火の中で、苦しい思いをして人々が死んでいきました。
親戚が誰もいない人たちはどうなってしまったのでしょうか。それでも、母が別れる時に、『かよちゃんにはエクボがあるのよ。いつも笑顔でいなさいね』と言ってくれた言葉を胸に、ふんばってきました」(海老名さん)
「東京では、わずか2時間の間に11万人が亡くなったそうです。なんて恐ろしいことでしょう。無残な戦争が今も続いていることに心が痛みます。この体験を事細かに伝えていくことが私の使命だと思っています。
世界中のみんなが手を取り、話しあい、仲良く暮らすことが一番じゃないでしょうか。地球上のみんなが暮らしていける時代を目指して、平和への礎を作っていきたい―」(海老名さん)
今年に入って体調を崩したという海老名さん。周りの心配をよそに、「心だけは丈夫です。命ある限りはこの運動を続けていきます」と語る気丈な姿に大きな拍手が送られた。
引揚者で漫画家のちばてつやさんも発言し、「中国から帰ってくる時、子どもを売れば食糧をもらえると何度も言われたが、母は『みんな自分が産んだ子だから』と連れて帰ってきた。子どもたちはみんな栄養失調、弟は失明しかかっていた。戦争では、体の弱い人、小さい人からどんどん死んでいく。戦争を体験した人間として(自分の体験を)伝えていきたい」と語り、「おねえちゃん、頑張ろう」と海老名さんが座る方に顔を向け笑顔を送った。
この日のもう一人の主役は子どもたち。
海老名さんが作った「ババちゃまたちは伝えます」を台東初音幼稚園の園児が日本語で、東京朝鮮第1初中級学校附属幼稚班の園児たちが朝鮮語で歌い、来場者を和ませた。東京第1の園児たちは鮮やかなチョゴリ姿で登場。入場すると、「ワー」と歓声をあげる人や手を叩く人で会場がわきあがった。
同校の園児たちは、23年6月にも海老名さんが企画したコンサートに出演。朝鮮語で曲を披露し、平和のメッセージを届けた。(瑛)