震災の記憶
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日刊イオの次回の担当日が3月11日に割り振られた2月後半から、東日本大震災について自分になにか書けることがあるだろうかと考えていた。私は当時、朝鮮大学校の3年生になったばかりで、その日は寄宿舎の部屋移動をしている真っ最中だった。
ちょうど建物の外にいた。信じられない大きさの揺れが来て立ちすくむ。揺れが一旦おさまったあと、号令かなにかがあったのだったか。持っていた荷物をそのまま地面に置いて、ひとまずみんなでグラウンドに集合したのを覚えている。
なんとなくクラスごとにまとまって座り、誰かが持ってきてくれた毛布にくるまる。少し経って東北が震源地であることが分かってくる。その地方出身の友人たちが、必死に家族と連絡を取ろうとしている姿も目にした。
例年よりも遅れて新入生がやってきた。支援物資として送るのか、たくさんの衣服が段ボールに詰められていた光景を覚えている。
被災地となった場所へ意識的に向かったのは、遅ればせながら朝大を卒業した後だった。2013年11月10日、福島朝鮮初中級学校(当時)の文化祭が同校体育館で行われた。震災後、新潟朝鮮初中級学校と合同で学校行事を行ってきた福島初中の子どもたちが、約2年ぶりに同校にて単独で行う文化祭だった。
同級生がFacebookで行事の宣伝をしているのを見て知ったのか、私は「絶対に現地で取材したい」と感じ、当時の編集長に「行っても良いですか」と申請したのだった。直前だったこと、また他に取材内容を見つけられなかったこともあり難色を示されたが、なぜかどうしても諦められなかった。
別の先輩に相談したところ、「あなたが行きたいなら行った方がいい」と言われ、自費でいいから行こう、と決めた。いま考えると、震災時、そして震災の後にも被災地に関心を向けてこなかった後ろめたさからだったかもしれないし、同級生が心を寄せる地元の同胞たちの姿を見たい、取材したいという純粋な気持ちからの行動だったのかもしれない。
突然行った新卒の記者を現地は温かく迎えてくださった。「素朴な公演だけど…」、多くの方が控えめにそう話していたが、児童・生徒たちの精一杯の頑張りと同胞たちの真心が見られる催しだった。
朝鮮の歌「フィッパラム(口笛)」を歌ではなく実際に口笛で演奏したり、マイクを持った児童が舞台を降りて、公演の感想について観客にインタビューしたりと、ユニークな演目も印象的だった。
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私は震災から2年半後に取材をしたが、先輩記者たちは震災直後に東北各地へ入り、さまざまな体験をされて記事を書いた。
被災した地域に暮らす方々の思いは当然一様ではない。積極的には当時のことを語ろうとしない方もいたし、「もういいから放っておいて」と匿名でイオ編集部に電話をかけてきた方もいた。
その方の苦悩は計り知れず、現地に暮らしていない記者たちが震災の時期だけ、決まったテーマでのみ取材をすることの失礼さにも気がつかされた。震災の記憶を残すことも大切だが、最初から震災というフィルタをかけず、他の地方同様に喜怒哀楽ある普段の日常について取材しなければ、と遅ればせながら感じた出来事だった。
記事を執筆する際、現地へ行かなければ出てこない言葉というものがある。私は環境が変わり、取材の機会はほとんどなくなってしまったのでえらそうなことは言えないが、これからも日本各地の同胞たちの多様な語りや記憶について知りたいと思う。(理)