真の民族解放を/高演義先生を偲び
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元朝鮮大学校外国語学部学部長であり、「第三世界主義者」、フランス文学者である高演義先生が先月、81歳でこの世を去った。
既に(相)のブログで紹介された通り、本誌での紹介は昨年11月号に掲載した林裕哲先生との特別対談「今こそ『第三世界』を語ろう」が最後となった。あのタイミングで、高先生の言葉を読者に届けることができてよかったと改めて思う。HOWSでの連続講座を皮切りにしながら、在日同胞にとって今、第三世界を知る必要性を強く感じた思いが取材を敢行する原動力となった(取材後記はこちらから)。対談企画を「跳躍台」にして、本誌で国際情勢解説の連載「世界を見る眼 Word View」を今年からスタート。執筆は主に高先生の弟子筋が担当している。
第三世界と在日朝鮮人。在米パレスチナ人でありながら、絶えずパレスチナを思い、発信し続けた知識人であるエドワード・サイードや、植民地奴隷の島とされたマルチニック島から離れ、宗主国フランス、アルジェリアと漂い、第三世界理論を構築したフランツ・ファノン…。高先生は、かれらと同様に、祖国から切り剝がされて「浮遊」することを強いられた者として、絶えず民族に根差すことを強調する。そして、事実が覆い隠され(カバーされ)、わい曲される朝鮮民主主義人民共和国に対する報道(サイード著『イスラム報道』の原題になぞらえて、「Covering DPRKorea」とでも言おうか)が跋扈する旧宗主国の地で、「まこと」の朝鮮とその正当性を諧謔を交えながら同胞社会、日本社会に伝えてきた。高先生の「大国主義に惑わされるな」という言葉が今強烈に脳裏をよぎる。
本誌に掲載した特別対談の記事、過去の朝鮮新報に掲載された高先生の寄稿を改めて読み直している。そして、私が大学時代に影響を受けた「バイブル本」である『〈民族〉であること 第三世界としての在日朝鮮人』。
本著で高先生は、「外的な枠組みとしての環境のほうを、なま身の人間実態以上に高く買う(原文傍点)」、いわゆる「在日」論(とりわけ「在日文化人」)に対して痛烈な批判を展開している。朝鮮民族と祖国から限りなく遠ざかり、日本社会の「市民」性ばかりを強調する「在日」論者…。私は大学の頃に、頭を殴られたような衝撃を受けた。われわれ同胞はいまだに真の解放を遂げられていないにもかかわらず「状況のとらわれびと」(高先生)なんだと。同時に私が思うのは、「北朝鮮」という存在しない国名については敏感に反応するが、人間主体ではない「在日」という呼び名について同胞たちはあまりにも無批判的だということ。在露、在中、在米、そして在朝のコリアンがいる中で、このように呼ばれている(あるいは自称する)民族は世界中どこを見渡してもいない。「在日」=日本で暮らすコリアン?圧倒的多数の在日日本人は何処へ…。
対談後に私がいただいた高先生の随筆を読みながら、考えを巡らす。当日、手土産として持ち込んだ拙稿(卒論)「反植民地主義と反帝国主義に基づいた朝鮮民主主義人民共和国の第三世界外交」をどのように読み、批評していただいただろうか。また話を聞く機会を設けて、教えを請いたかった。
奇しくも昨年はサイード没後から20年。サイードの視座が現在のパレスチナ情勢を見るうえで有効であるように、これからも「在日」状況を生き抜かなければならない同胞たちにとって高先生の視座、思想が廃れることはないだろう。何より、朝大の教員、朝鮮新報社の記者をはじめ各界にいる数多くの弟子たちが在日朝鮮知識人の思いをこれからも受け継いでいくはずだ。私は「直系」の教え子ではないが、その一人でありたい。
「第三世界としての在日朝鮮人」が真の解放を遂げるためにこれからも―。
ご冥福をお祈りします。(哲)