「闘争」とは学ぶこと、記憶すること、立場を自覚すること
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朝鮮大学校文学歴史学部が「ウリマル、ウリ文化宣伝隊」(以下、宣伝隊)という取り組みを行っている。同学部の教員や学生たちによる特別出張授業だ。主に関東地方の朝鮮学校(初・中・高級部いずれも)と地方の朝鮮学校高級部を対象に、対面とリモートで実施されている。
「教科書には書かれていない朝鮮歴史の話」といった興味をそそるものから、ウリマルでの作文教室、演劇体験、漫才、情勢学習など内容はバラエティに富む。民族性の継承が重要な課題となっている同胞社会の中で少しでもその一助になれたらという目的のもと、去年から始まった企画だという。
7月16日には東京朝鮮中高級学校で宣伝隊の活動があり、文歴学部の現役学生たちが芸術宣伝「私たちのM-1グランプリ」と説話「民族教育の普遍的意義を言葉と文から見る」を披露した。詳細は月刊イオ9月号で報じるが、本ブログでは発表を見ながら私が感じたことを綴りたい。
説話の中で、詩人の許南麒さん(1918-1988)による作品《아이들아 이것이 우리 학교다》(子どもたちよこれがウリハッキョだ)が朗読された。この詩は以下の一節で締めくくられる。
아아 우리 어린 동지들아(ああ われわれの幼い同志たちよ)
朗読後、学生は朝高生たちに「70余年前、この詩を書いた許南麒先生はどうして子どもたちのことを『幼い同志』と呼んだと思いますか?」と問いかける。
かつて同胞たちは、民族教育を通してウリマルと文字を再獲得し、異国の地でも朝鮮人として生きようとした。その過程自体が植民地主義との闘争だった。朝鮮学校で学ぶ子どもたちも、民族教育を守り続けることによってその闘いを継承していく。そうした意味で「同志」なのだ——。
これを聞いて納得すると同時に、「闘争」という言葉がフックとなり、私の頭にはかつて別の場所で聞いた言葉が瞬間的に浮かんだ。とある朝鮮学校卒業生と話している際、その人が発した一言である。
「たまに朝鮮学校の生徒たちが街頭宣伝したとか文科省前でアピールしたとかいうニュースを目にすることがあるんですけど、未だにああいうことしてるんですね。『투쟁(闘争)』とか言って子どもたちを前に立たせて、それをSNSとかでこれ見よがしに宣伝して、最悪ですよ」
最初は鼻で笑うようなニュアンス、次第に怒りを帯びた口調で話すその人を前にしたとき、私は恥ずかしながらはっきりとした反論ができなかった。自分もそうした場面を数多く取材して記事にし、ネットにも写真を載せてきた。SNSの危険性も取り沙汰されているし、もっともな部分もあるかもしれないと勢いに押されてしまったのだ。
しかし、宣伝隊の発表を見て、その人の言葉がすべてもっともなわけではないのかもしれないと遅ればせながら思い始めていた。止まっていた考えがまた動き出したのだった。
もう一つの演目である芸術宣伝では、以下のようなナレーションもあった。
数日前、日本の女子高生たちが韓流スターの話で盛り上がり「韓国人になりたい」と話していた電車内で、かつて朝鮮学校に通う女子生徒たちのチマチョゴリが切り裂かれたという歴史をしっかりと記憶すること。
いまはチマチョゴリで学校には通わず、切り裂き事件もないけれど、私たちの心に向けた칼질(切り裂き行為)は増え続けていること。ウリマルと歴史を学ぶことに対する칼질。
これらを私たちの問題としてはっきりと認識すること。
それは間違えていると声を上げられる心を力を持つこと。
これが、いまを生きる私たちが持つべき民族性ではないでしょうか。
ハッとした。朝鮮学校生徒たちによる투쟁(闘争)を批判していた人は、きっと行動やビジュアルのみに目を向けていたのだ。「前に立つこと」「顔を晒すこと」「労力を費やすこと」「自分が犠牲になること」。その人の中で闘争とはそのような意味やイメージだったのではないか。
また、闘争という言葉それ自体を、なにか過激で悪いものという、日本社会にまん延している「臭いものには蓋をしろ」「事なかれ主義」的な空気に同調した定義で捉えていたのかもしれない。
私たちが言う闘争とは、そうした表面的なものではない。「朝鮮」と名のつくものに対する憎悪が吹き荒れる国で、朝鮮半島にルーツを持つ者として、なにかを隠さなくても、縮こまらなくても、自己を検閲しなくても生きていけるように続けていく営み。自分たちの歴史と存在意義について不断に学び、立場性を自覚していくこと。
そうした植民地主義への抗いが、私たちの闘争なのだと思う。
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自分たちの間で伝わるからと言って定期的に意味や本質を見直さず、何度も何度もスローガン式に唱えているだけでは言葉は形骸化してしまう。特に、かつてそうした言葉をよく聞いていた人(例えば上に出た卒業生など)が、いつの間にかメディアなどの影響を受けて、頭の中で知らず知らずのうちに定義を変質させてしまうこともある。
特に在日朝鮮人は日本語と朝鮮語を行ったり来たりする存在だから、日本語に込められたニュアンスが朝鮮語に溶け込んでしまうことも珍しくないだろう。
だからこそ文歴学部の宣伝隊による今回の発表、個人的にはもっと多くの同胞たちにも見てほしいなと思った。(理)