誰もがなにかのマジョリティ
広告
定期的に書店へ行く。ネットで見た気になる新刊を直接手に取ってチェックしたいし、本が好きだから店内を歩いているだけで楽しいというのもある。難点を挙げるなら、すでにたくさんの積読があるにも関わらず読みたい本が増えてしまうことだ。
先日も3冊、目に留まるものがあった。
『ナイス・レイシズム なぜリベラルなあなたが差別するのか?』
『人を動かすナラティブ なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』
『言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?』
いずれも副題が「なぜ~のか」なのは偶然か流行りか。あるいは私がこうした表現に惹かれるちょろい人間なのだろうか。
最近、咀嚼しながら考え、学ぶ読書から少し離れていたような気がするので、ひとまずいま読むべきはこれかなと考え、『ナイス・レイシズム』を図書館で借りた。
※以下、刊行元である明石書店のサイトに掲載された「内容紹介」から引用
黒人や先住民、アジア人などの非白人を日常的に差別するのは、敵意をむき出しにする極右の白人至上主義者ではない。肌の色は気にしないという「意識の高い」リベラルだ——善意に潜む無意識の差別を暴き、私たちの内に宿るレイシズムと真に向き合う方法を探る。
巻末資料を除いても320p以上のボリューム。しかし冒頭から読みやすく、「はじめに」部分だけで、大げさではなく1行ごとに学びがある。
こうした本を読むとき、多くの在日朝鮮人は自然と「マイノリティ側」に立って内容を取り入れていくのではないだろうか。実際に、同書の解説ページでも「リベラルな日本人に置き換えると…」という文脈で内容が参照されている。
当然、「日本人こそ知るべき」というのは大切な視点であり主張であることは否定しない。そんな認識を持ちつつも、私個人としては「ほかのさまざまな属性においてはマジョリティ側にまわる自分」を忘れないようにして読み進めている。
さまざまに知り、気づき、反省しても。どんな人の中にも差別の種は潜んでいるからだ。
このような視点を持てたのは、逆説的ではあるが、自己のマイノリティ性について考えさせられる機会が多かったからだと思う。差別の歴史や構造について学ぶことは、マジョリティが使う言葉やかれらのパターンについて学ぶことでもある。つまり、マジョリティの姿がよく見えるのだ。
だから、別の場面で属性が反転したときに、自分もマジョリティの言葉や態度をなぞってはいないかと多少は敏感でいられるような気がする。
過去の取材で、とある朝高生が発した言葉を思い出す。
今の社会でマイノリティとして生きることは本当に厳しいことだと思うが、マイノリティとして生きないと見えてこないものがある。日本の学校で育った人とは社会を見る目や視野の広さが違うと思う。自分は朝鮮籍だけど、もともとあまり国籍にこだわりを持っていないので、だったらマジョリティとして生きるよりマイノリティとして生きる方が、自分としては得を感じるというか…
自身の言動を指摘されると「差別したつもりはない」と本気で憤慨したり、悲しみの言葉をつらつらと重ねる人をたまに見かける。こうした人を、ときに気の毒にも感じる。
圧倒的マジョリティとして生きていると、本当に何が悪いか分からず、どうやって、何から知ればいいか見当もつかないという感覚もあるのではないか。上の朝高生の言葉を借りるなら、「社会を見る目や視野の広さが違う」のだ。
目の前にあるのに見えていない。感じられない。そうした透明な思考の檻を脱する最初の一歩はなかなかに大変かもしれない。『ナイス・レイシズム』の著者自身「白人」で、同書を執筆しながらでも「自分の中に深く内面化された頑迷なレイシズムのパターンと闘い続けてもいる」と書いている。
まだ読了はしていないが、どんな立場にいる人が読んでもきっと学びが多いだろう。(理)
※朝鮮新報にも書評が掲載されている。
→https://chosonsinbo.com/jp/2023/12/11-136/