花園校舎を胸に刻む/全文公開・大阪中高大感謝祭ルポ
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最新号の月刊イオ2024年12月号では、10月19日に行われた大阪朝鮮中高級学校花園校舎感謝祭「세상에 부럼없어라(この世に羨むものはない)」のルポを載せました。
同校オモニ会がアップしてくれた動画を見ながら、1973年から民族教育を守ってきた菱江の土地から校舎が移転するという現実が迫り、数々の思い出が脳裏をよぎりました。
https://www.facebook.com/oskcg.omonife/videos/948328840677557/
大阪朝鮮高級学校(当時)を初めて訪れたのは、36年前の高校2年のときです。
日本各地の朝鮮学校生が集まる芸術競演大会に参加するためでした。同校の文化会館が圧倒的な存在感でそびえたっていたことを覚えています。東京朝鮮中高級学校の文化会館とともに、大阪朝高の文化会館は、舞踊や楽器、歌といった芸術系のクラブ活動をしていた朝鮮学校生にとって「聖地」でした。
社会人となり本誌編集部に入った2003年夏、花園を目指す大阪朝鮮高級学校ラグビー部を取材しに同校へ。以前から「日本一」を目指し、研鑽を重ねていた金信男監督率いるラグビー部を追いました。その年、同校ラグビー部が見事全国大会への切符を手にしたときは、感動のあまり身震いしました。
1990年代後半、大阪では同胞社会をあげて教育権利を求める闘いが盛んでした。
大阪府私学課長のインタビューを企画してくれた大阪朝鮮学園の蔡成泰さんは、同胞保護者を対象に頻繁に学習会を開き、権利意識の向上に務められていました。
権利は勝ち取るもの―。
寝ても覚めても民族教育の意義を伝えようと保護者たちを対象にした勉強会に署名活動、行政への要請、学校公開に奮闘する姿に多くを学びました。
大阪の同胞社会は、記者として私を育ててくれた場所です。
12月号に掲載された大感謝祭の記事を読みながら、高体連への参加を求める運動に始まり、在日朝鮮人の民族教育権運動をリードしてきた大阪のパワーを今一度思い出しました。
今回の「校舎移転」という大きな試練を、必ずや乗り越えてほしいと切に思います。
大阪民族教育の大きな分岐点に立った同胞、生徒たちの姿を描いた(鳳)さんの記事を全文記します。
思いよ、届け!(瑛)
同胞たちの校舎
大阪府東大阪市菱江2丁目18番26号。約5300坪の土地に、堂々たる様相で佇む緑色の校舎―大阪朝鮮中高級学校。大阪民族教育の大黒柱だ。
「最初は何もない更地だった。同胞たちは一丸となって校舎を建てたんだ。生徒たちも運動場の草刈りを手伝ってね」。兪基奉さん(83)が教えてくれた。祖国から教育援助費と奨学金が届いた1957年、当時玉串にあった大阪朝鮮高級学校に入学した兪さんは、約半世紀を民族教育の発展に捧げ、同校校長も長らくつとめた。同校が菱江の地に移転したのは1973年4月。同年8月に文化会館が竣工した。50年も前の記憶は今も脳裏に鮮明に刻まれている。「大阪中高は私の『政治的生命』のようなものです」。
感謝祭が行われたこの日をもって、大阪中高花園校舎は門を閉じ、来年には旧中大阪朝鮮初級学校の敷地に建設中の新校舎に移転する。校舎の老朽化、無償化排除に連なる大阪府の補助金カット、生徒数の減少などたび重なる試練のなか、子どもたちにより良い教育環境と未来を保障するための苦渋の決断だった。新校舎が完成するまで高級部は旧城北朝鮮初級学校、中級部は旧大阪朝鮮第4初級学校校舎で学校生活を送っている。
移転を前に大阪中高では、体育大会(10月13日)で、近年規模を縮小して行っていた大型の朝鮮国旗をはためかす集団体操に卒業生らを動員し正規の規模で行うなど、花園校舎に思いを馳せ、新たな歴史を切り拓く決意を固めてきた。
感謝祭は、同胞たちの花園校舎を同胞たちとともに見届けようとアボジ会・オモニ会によって企画された。オモニ会会長・梁淑子さん(46)は「この校舎と、そして文化会館と。皆が自負と矜持、特別な思い入れを抱いている」と話す。
総聯の数々の大会、中央芸術競演大会、祖国の芸術団が来日したときも、この文化会館が会場となった。ゆえに今回のイベントも、同胞たちの思い出がたっぷり詰まった文化会館で行うこととなったのだった。生徒、教員らが各種学校行事と引っ越し作業で多忙を極めるなか、アボジ会とオモニ会が企画と準備のほとんどを担った。
「高3,中3に晴れ舞台を」
この日、舞台では生徒、教員、アボジ会・オモニ会、地域同胞たちや、大阪朝鮮歌舞団と大阪中高出身の金剛山歌劇団俳優たちによる一夜限りの特別ステージが繰り広げられたほか、立ち並ぶ屋台からは芳しい香りが会場全体に漂っていた。
そんな中、何よりも参加者たちの耳目を集めたもの――。
高3、中3生徒たちのセレモニーだ。時折ユーモアも交えて一人ひとり校舎への思いをのべたあと、校歌を合唱した。
「高3、中3の生徒たちは現校舎でも新校舎でも卒業式を行えない。新校舎で生活できない生徒たちの晴れ舞台を作ってあげたかった」(アボジ会・金正植会長、55)。それは主催者たち皆が共有していた約束事だった。
卒業を控えた生徒たちの率直な思いはいかに。
金善希さん(中3)は、「大阪中高は、私の心を受け止め大事にしてくれた友人や、先生たちと出会えた場所。新校舎に行っても隣のトンム(友人)、先生たちは変わらないけれど、本当は大切な思いが詰まった校舎の全部を一緒に持っていきたい」と静かに語る。「この校舎の至る所に同胞たちの真心が詰まっている。移転は寂しいけれど新校舎に対する期待もある。新校舎も同じくらい私たちの真心でいっぱいにしたい」と話した。
「いよいよ移転の実感が湧いてきたが、まだ現実として信じられない部分がある」とのべたのは全彗殉さん(高3)。母が教育会に務めているのもあり、幼いころからこの校舎を訪れてきた。愛着のある校舎を出ざるをえない悔しさ、苦しさを吐露しながらも「これも大阪の民族教育を守り同胞社会の未来を切り拓くうえでの一つの発展過程」だときっぱり。「仮校舎でも移転先の校舎でも大阪中高の名前が残る、ウリハッキョが存在するということに感謝をしたい」。
金采玹校長によると、高3の生徒たちは6月末に行われた文化祭で、かつて卒業を控えた生徒たちが学校の敷地内に植え、今日まで同校を見守り続けた「木蓮の木」を題材に演劇を上演した。そのストーリーの「伏線回収」をする形で、今度は新校舎の敷地に自分たちの名前で木蓮を植えるという。感謝祭の日、生徒たちは屋台を出店し、植樹のための資金を集めた。
梁聡佑さん(高3)は「ここでトンム(友だち)たちと過ごした何気ない日常が宝物」だとしながら「花園校舎での歴史の締めくくりと、新校舎での新たな歴史のはじまりと、節目節目を輝かせることが私たちの責任だと思う。自分たちは新校舎では学べないけれど、学校の歴史はずっと続いていく。大阪中高が100周年を迎えるときも、私たちが中心となってその歴史を輝かせたい」と話した。
「必ず守ってみせる」
クライマックスは1500人の参加者全員による大合唱。会場のボルテージが最高潮に達したとき、ある言葉が記者の頭をよぎった。「本当は明日が来てほしくない」――前日18日の晩、屋台の仕込みで学校を訪れていた梁淑子会長の言葉だった。見渡す限りの人混みのなか、カメラを構え一人ひとりの表情にピントを合わせる。笑いと涙と汗が入り混じった面面は、喜怒哀楽どれか一つでは表現できない。
「ここがなくなってしまう寂しさは拭いきれない。でも、大阪民族教育を守るためならば…新校舎での新たなスタート、必ず生徒数を増やして学校を維持しないと。ここで学び育った者として、最後まで見守っていきたい」(兪基奉さん)
「何十年も当たり前にあった校舎がなくなると思うと、悲しくて寂しくて。でも、現校舎でも新校舎でも朝青の役割は変わらない。後輩たちがウリハッキョで思う存分学び民族の心を養えるように。先代たちの思いを受け継いで民族教育を発展させていきたい」(朝青東大阪支部・沈怜紀さん)
「めちゃくちゃ寂しい。でも、子どもたちの一生懸命な姿を見ると振り切れる。クヨクヨしている場合じゃない。新校舎が建ったら、日本学校をふくめ大阪で一番の学校にする。未来に向かってずっと輝いていけるように」(金正植会長)
「この校舎が本当になくなってしまうのかと思うと、苦しくて辛くて涙が止まらない。イベントをしたからと何かがすぐに変わるわけでもない。でも、今日の感謝祭を通して小さな種火でも残せたなら、未来にはこれがミラーボールになって学校をピッカピカに照らしてくれるかもしらん。とにかく進まなしゃーないねん」(梁淑子会長)
生徒、同胞たちは、くしゃくしゃになった顔を上げ、前を向こうとしていた。「大阪民族教育を必ずや守ってみせる」――苦しみも悲しみもすべて抱きかかえて、新たな一歩を踏み出そうとしていた。(月刊イオ2024年12月号から転載、一部加筆)
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