涙の学芸会
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2月某日に行われた地元・東京大田の東京朝鮮第6初級学校の学芸会。第6学校は全校生が50数人の比較的小さな学校だ。体育館も講堂もないので、近くの区民ホールを借りての学芸会となった。
4、5、6年生が出演する合唱「ピョンジ(手紙)」がよかった。「未来の自分」に一人ひとりが手紙を送る。「大きな家に住んでる?」「家業をちゃんと継いでる?」「ディズニーランドの踊り子になってる?」…
フィナーレは全校生が出演した農楽だったが、最後、全校生がキメのポーズをとって幕が閉じるとその一体感に圧倒され、涙腺がハレツしてしまった。子どもたちがひとつの舞台を自力で作り上げた達成感もそうだが、自分につながる言葉を五感で表現する姿に圧倒されたのである。学芸会は何度も見ているはずなのに…。
日本はオランダやカナダのようにルーツを異にする人たちへの教育の場を国や自治体が保障する、という考えに乏しく、ゆえに外国人学校が制度的に保障されていない。そのため、朝鮮学校や他の外国人学校は自力で教育の場を作っているのは周知の事実だ。
昨今の不況で職場を失うブラジル人が後を絶たず、ブラジル学校が相次いで閉鎖を余儀なくされているのも、学校運営の「基盤」が脆弱だからだ。しかし、行き場を失った子どもたちは母語の通じない日本の学校でどう過ごしているのだろう? 学校に行かず、働きに出る生徒も多いと聞く。本当に悲しいことだ。
日本で保護者やそのコミュニティが学校を維持できなければ、その教育を求める保護者や子どもたちは「学ぶこと」をあきらめなければならない。だからといって、通わせている保護者たちが財政的に豊かなのかといえばもってのほかで、朝鮮学校の場合、休みとならばオモニたちがキムチを漬けて、それを売り歩いて学校の運営資金をコツコツと稼ぎ、仕事の合間を縫って自治体に補助金制度の充実を求め要請に走る。
先日も生徒の退学がとまらないので、ブラジル学校の教員が給料を半分に減らして学費を下げたというテレビ報道があった。緊縮財政は安い人件費でしか成り立たない。
教育の場がなくなってしまえば、私が学芸会で見た子どもたちの姿は存在しない。そう思うと、目の前に広がった光景があまりに尊く、愛おしかった。(瑛)