49回目の誕生日
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郊外の朝鮮学校を訪れたのは、駆け出しの頃に机を並べていた同僚のYさんが49回目の誕生日を迎えた日だった。「生きていたなら…」と同校で1年生を受け持つ夫人のS先生が教えてくれた。
Yさんは耳が遠かったせいか、いつも電話の声が大きく、タバコが好きだった。そのためか、隣に座る私は集中力が散漫しがちで、その席で原稿を書き慣れるまで時間がかかった。もっとも集中できなかった理由は、新聞記者という夢を手にした喜びもつかの間、日々新しいテーマと現場に追われっぱなしで、私自身がてんてこ舞いだったからである。
S先生のクラスの子どもたちは、はしゃいでいたものの、成績表を開くまでは、緊張で張り詰めていた、ということが、成績表を開いた瞬間の表情の緩みでわかった。幼心の機微に触れるように、一喜一憂しながら、「がんばったよ」と一人ひとりの努力をたたえるS先生。お腹の底から出てくるハリのある声、子どもの成長を心から喜ぶその姿に、この仕事が心底好きなのだろうと感じた。
当時まだ35歳だったS先生が、夫の葬式で「10年しか一緒に過ごせなかった」と気丈に振舞っていた姿が目に浮かんだ。
自宅で子どもと遊んでいるさなかに倒れ、そのまま逝ってしまったYさん。
故郷への初出張から帰るとすでに意識不明の状態だった。
出張がんばれと、うどんをつまみにビールで乾杯したこと、残業を終えた居酒屋で目を細めながら家族の話をしてくれたこと…。たくさんの思い出が走馬灯のように頭をよぎる。ぶっきらぼうだったけど、情に厚く、表裏のない人だった。
S先生は、葬儀を終えた後に京都にお住いのお父様と本社に挨拶に来られた。
亡き伴侶の机に腰をおろしては「ここで働いていたんですね」とつぶやく姿はやりきれなかった。
親きょうだいと離れたこの土地で、時には大変な思いをしながら、家族と受け持った子どもたちを一生懸命育ててきたのだろう。
その思いを私はほんの少ししか知りえない。
あの時から6年半たった今もS先生がこうして教壇に立って、子どもたちと過ごしていることが、ただただ嬉しかった。
当時小学生だった娘さんは、今朝高で朝鮮舞踊に熱中しているそうです。
Yさんそっくりの息子さんはサッカーに打ち込んでおり、性格はオンマ似だそうです。
S先生は地域での信頼が厚く、終業式の日は保護者のオモニたちに「来年も」とリクエストを受けていましたよ。
Yさん、家族のみんなは立派に暮らしています。私も元気にしています!(瑛)