雨男
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死後の世界や前世は何だったとか、霊感、何とか占い…のような非科学的なものはまったく信じていないので、こういうことを書くのもなんなのだが、自分は「雨男」ではないかと思っている。息子の運動会に3回行ったが、2回も雨に降られた。去年の朝鮮民主主義人民共和国創建60周年の祝典のときには、ずっと「おれが参加したから雨が降ったのか」と心の中で思い続け、いっぱい集まった同胞や日本人にもうしわけない気持ちになっていた。その他、いろんな行事に参加した経験上、わたしが行くと雨が降る確率が高いという印象をもっているのだ。
だから、取材で各地で行われる同胞の行事、それも屋外で行われる行事に行くのが、ちょっと気が引けるのである。野外行事は天気が成功の大きな部分を左右するわけで、何ヶ月も前から地域の同胞たちが一所懸命に準備したものが、雨が降ることにより、まさに水が差されてしまう。天気は誰のせいでもないということはわかっているのだが、雨が降ったら自分のせいではないかと心苦しくなる。
10月25日、長野県松本市にある長野朝鮮初中級学校の創立40周年記念行事を取材してきた。長野の朝鮮学校を訪ねるのは初めてである。いまの学校は10年前に移転したものだが、その立派さにまず驚かされた。体育館、校舎ともに豪華だし、運動場は正式なサッカーの試合ができる広さだという。周囲を見渡せば、アルプスの山々が望める。わたしが見てきた多くの朝鮮学校のなかで、初中級学校としてはナンバー1ではないだろうか。
記念行事は、体育館での記念式典、子どもたちの芸術公演と続き、第3部は運動場での野遊会である。
運動場へ行くと、まず目に飛び込んできたのが写真のバス。団体の参加者が乗ってきたものかと思ったが、そうではなかった。バスの窓に「寄贈 アルピコ労働組合川中島バス支部 日朝長野県民会議」という紙が張られていた。長野県の日本の人たちが朝鮮学校の40周年を記念し贈ったものであった。中古だというがピカピカで、バス1台を寄贈するとはたいしたものだと感動してしまった。長野県は日本人による朝鮮学校(在日朝鮮人社会)支援の動きが昔から活発で、地域に根付いた運動となっているのだ。
長野の同胞たちはこの日のために1年ほど前から準備を進めてきた。全体を通して、苦しい生活のなかでも学校を建ててくれた1世たちへの感謝の気持ちと自分たちが学校をいつまでも守っていくんだという強い気概が凝縮されたすばらしいイベントであった(詳しい内容は月刊イオの12月号に掲載します)。
空は今にも泣き出しそうであったが、結局、後片付けが終わる最後まで1滴の雨も降らなかった。長野の同胞と日本人の朝鮮学校に対する思いが、「雨男」を蹴散らしたのであろう(ベタなオチですみません)。
翌日は追加の取材で松本市内をうろうろとしたが、朝から夜遅くまで一日中雨でたいへんだった。(k)