懐かしい黒電話
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携帯電話を多くの人が持つ時代になりましたね。
黒電話で育った時代が懐かしく思い出されます。
最近、携帯電話をなくしました。しちめんどくさい数々の手続きを前に、持たない選択肢も一瞬よぎったものの、結局は続けて持つことに。「持つ」ということは「なくす」というリスクも踏まえたうえで決めなきゃならないと実感した出来事でした。
しかしながら、電車の中で、会社で電話はよく鳴ります。それをチェックするたびに思考は途切れ、その場の空気も止まってしまいます。例えば、どんな小さな会議でも、みんなの時間を調整しながら集まっているのに、それが一本の電話でさえぎられてしまう。誰かが何か大事なことを話そうとしていたかも知れない。チーム内でばらつきのあったひとつの案件について議論が深まり、さらに個々人の思考が深まって何かいいアイデアが生まれたかも知れないというのに…。部屋にひとつしかなかった電話をみんなが持つことによって、生まれる弊害もあるわけです。
お世話になっている人の中に携帯をお持ちでない方がいます。こちらからの用件は手紙で伝え、お返事は公衆電話からいただきます。それで十分だと感じます。なぜなら、私たちは携帯を持つことで、持たされることで、過剰に連絡を取ることを強いられてしまうからです。「携帯を鳴らしても出ない」「なぜ出ないんだ!」という具合に携帯によってストレスが溜まる方も増えてしまったのではないでしょうか。
もちろん、世の中緊急を要することはあるので、通信手段が発達するのはいいことでしょう。
ただ、いいことばかりではない。
例えば手紙がいいな、と思うのは、受け取った人が自由な時間に封を切って、読み、返事を書きたければ自由な時間に返せる。これがめんどくさい方もいらっしゃるでしょう。ただ、手書きの文面は、均一化した書体にはない味わいがにじみ出ていいなぁと思います。
都内の電車の中はすっかりパーソナルな空間になってしまいました。「パーソナル」なんて、一見きれいで無機質な言葉ですが、PSPをしている人もいる、ノートパソコンを前に仕事の書類をばたばたと作成中の人もいる、中にはイヤホンなしでテレビの野球観戦をしている人もいる…。時間の使い方は個々人の自由ですが、みんなが快適に使える空間というものを現代は意識しなければならないようです。
一昔前は電車は落ち着く空間でした。だけど、ボタンを叩く音やファンデーションが飛び散るのが気になるわで、電車に乗る際、人の顔を見渡してポジション探しをするのが癖になってしましました。
こんなことを書きましたが、私も携帯保持者。ジレンマを抱えながら生きているわけです。(瑛)