ある風景
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明日はイオ1月号が納品される日です。
入稿も無事終わり、いまが一番ほっとする時期なのですが、まだ出来上がってないので、どきどきしながら待っているところです。
今回イオ1月号工程中に、取材で1世の方と出会う機会がありました。
他方で、(里)さんがブログで書いていた、(4世代にわたるある朝鮮人一族を描いた)DVD「ボクサー」を見ました。
取材で話を聞きながら、そしてDVDを見ながら、思ったことは私たちは知らないことが多すぎるということ。
28年しか生きていない、と言えばそれまでですが、1世たちの経験は、私ひとりが想像できることではないと痛感しました。
そして、(語弊がありますが)その1世の人たちの数が年々少なくなっていくなか、彼らのその人生は、永遠に語られることなく、彼らが持って行ってしまい、いつか1世のいない風景が当たり前になってしまうのです。
1世のいる風景を間近で見てきた2世、しかし、私を含む3世は1世のいる風景を微かにしか知りません。
私は1世の築いた土壌のうえで育ってきましたが、今の私にはその「土壌」を語れません。
なぜなら、多くを知らないし、表現しうる言葉を持っていませんし、何よりも未熟すぎるからです。
やがて1世がいなくなっていくという現実を前にした、「今日」の、1世のいる風景とはどんな風景でしょうか?
1月号の特集は、「1世のいる風景」――そこには、たくさんの笑顔がありました
イオを通して、1世の築いたこの土壌を、より深く知り、2世の先輩方、3世の同世代、4、5世の後輩へとつないでいけたらと思います。
そして私自身もまた、それを言葉に置き換えられるよう勉強をしながら、たくさんの人たちに1世を語っていけたらと、そう思いました。(愛)