長崎出張―その3―
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長崎に行ったら、必ず訪ねたいところがあった。それは、大村市にある法務省の大村入国管理センターである。むかし「大村収容所」と呼ばれていたところだ。
出張に出る前、イオ編集部の若い部員に「大村収容所を見てくる」と言ったら、「大村収容所って何ですか?」と返事が返ってきた。いまの若い人たちは「大村収容所」と言ってもわからないのかと、感慨深かった。
2001年の朝鮮新報に「大村収容所」に関する記事が出ていたので、そのまま引用する。http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2001/1/0126/74.htm
―大村収容所は朝鮮戦争の避難民や外国人登録令に違反した同胞を収容し、南朝鮮へ強制追放するために設立された施設です。1950年10月1日、針尾収容所として始まり、12月末に大村の元海軍航空工廠跡地に移転して現在になりました。
初期の収容人員は常時4、500人で、最も多いときには1500人が収容されていました。ここから集団送還された同胞数は、50年代だけでも1万人以上にのぼります。被収容同胞には刑務所や捕虜収容所と同様な、過酷で非人道的な待遇が行われていました。
収容所の周りは鉄条網と高いコンクリートの塀で二重に取り囲まれ、鉄格子の付けられた部屋は溢れる人数で身動きできず、食事や医療も不充分でした。しかも52年5月以降、送還者のうち「終戦」前から在留者で追放された者の受入れを南朝鮮政府が拒否したため、劣悪な環境で多くの同胞が長期収容を余儀なくされました。
このような状況を打開するため被収容者たちは即時釈放と待遇改善を要求し、再三抗議集会を開きますが、当局はこれに対し武装警官を導入して弾圧し、多数の死傷者まで出します。それでも同胞たちは遺書を書いて「死の断食」闘争を決行していきます。
58年以降、被収容者のうち「戦前」からの在留者が仮放免されます。と同時に56年から中断されていた強制送還が開始されるのですが、当時多くの同胞が南朝鮮での迫害を恐れ、共和国を帰国希望地としていたにもかかわらず、南へ送還され、過半数が情報警察に逮捕されるという事件が起きています。その後のたたかいで帰国地選択の自由が認められ、100余人の被収容同胞が共和国への帰国船第1便に乗船できました。
60年以降の大村収容所は、単なる在日朝鮮人追放の施設としてだけではなく、南の軍事政権から逃れてきた人々を再びそのもとへ送り返す南朝鮮の出島、反共の場と化していきます。(金大遠、研究家)―
いまの「大村収容所」は、記事にあった当時の建物はなく、写真で見るように新しく奇麗に立て替えられていた。また、昔は収容されていた人たちのほとんどが朝鮮人だったが、現在、朝鮮籍、韓国籍の人たちは収容されていないとのことであった。
今回、長崎で会った1世の同胞たちの話を聞くと、強制送還反対闘争を繰り広げたのはもちろん、収容されている同胞たちのために衣服や食料などの差し入れを持っていったと語っていた。
「大村収容所」のことは学生時代から知り、日本の朝鮮人弾圧の象徴的な場所として、いろいろと話を聞いていたので、今回、必ず実物を見てみようと思っていたのである。あまり時間がなかったのでじっくり見ることができなかったが、建てかえられたとはいえ、実物の「大村収容所」を見て、これまた感慨深かった。
今回、初めて訪れた場所として、三菱兵器住吉トンネル工場跡がある(写真)。昨日のブログで紹介した、長崎在日朝鮮人の人権を守る会の代表の高實康稔さんが案内してくださった。
三菱兵器住吉トンネル工場は戦時中、魚雷などを作っていた。いまは歴史を伝える場所として長崎市内の住宅地の真ん中に保存されている。周囲から5メートルほど低くなった駐車場の横にトンネル跡があるのだが、知っている人に案内されないと、見つけるのは難しいだろう。今年3月に整備されたところで、真新しい。
その案内板には、被爆被害について、朝鮮人労働者について、次のような解説文が日本語、中国語、朝鮮語で載せられていた。
「また、トンネル工場の稼動と平行して掘削が続けられており、朝鮮人約800~1000人が従事していました。
トンネルの外にいた者は、ほとんどが死亡したり、全身におよぶやけどや重い傷を負いました。」
「トンネル工場周辺には工員として動員された人達のための寮が建てられていました。また、土木工事をする人達等のための飯場がいくつかあり、その居住者の多くは朝鮮人労働者でした。
その中には、強制的に動員された者もおり、トンネルの掘削工事で過酷な労働に従事していました。彼らは3交代で、発破後のトンネル内での掘削作業や、発破により排出される土や石をトロッコで搬出したり、トラックに積んだりするような屋外作業を主に行っていたと言われています。」
軍艦島の炭鉱も三菱のもので、この兵器工場も三菱のものである。軍艦をつくっていた造船所も三菱だ。それらの場所で、本当に多くの朝鮮人が働かされ、その過程で死んで行き、そして被爆被害を受けた。この案内板の文章も高實さんら長崎在日朝鮮人の人権を守る会の人々や同胞の活動によって、朝鮮人労働者に関することが明記されるようになったが、三菱はなにもやっていない。
あらためて長崎を訪れ、長崎に朝鮮人の受難の歴史を物語る場所が多いことを知ることができた。―明日か明後日につづく―(k)
「三菱」というと…
九州-「三菱」と言うと、思い出すのは、
1973年に「調査団」が現地調査とのマスコミ発表すると、朝鮮人強制労働の現場・証拠というべき、「炭住」を跡形もなく破壊したということです。
当時、現地のマスコミにも報じられた事実です。
来週には、沖縄での「調査活動」に参加しますが、ブログを見て、九州にも再訪したいとの思いを強めました。