朱鞠内湖―その2―
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朱鞠内湖の取材で最も重要な場所であり、最も印象に残った場所は、最後に訪れた遺骨発掘現場である。
笹の墓標展示館から車ですぐのところの小高い丘の上にあがると、こじんまりと広がる共同墓地(写真1)がある。その奥に、朝鮮風の丸く土をもった墓があった。その前には「名雨 線鉄道工事・雨龍ダム工事犠牲者之標」と書かれた墓標が立てられている(写真2)。
強制労働で犠牲となった朝鮮人、日本人の遺体は、光顕寺(笹の墓標展示館)に一晩置かれたあと、ここに運ばれて埋められた。お墓の横に立てられた説明版には次のように書かれ ている。
――十五年戦争下に行われた名雨線鉄道と雨竜ダム建設工事では、朝鮮人強制連行とタコ部屋労働で二〇〇人をこえる生命が失われました。そのうちの約六割の人々がこの共同墓地とその周辺に埋葬され、戦後長くその犠牲は省みられることがありませんでした。一九八〇年から四年連続して、朱鞠内住民と空知民衆史講座の手で、笹ヤブの下から合計十六体の遺骨が発掘されました。
また九七年と〇一年には、日本、韓国・朝鮮、在日の若者たちを中心にした東アジア共同ワークショップによって、さらに六体を発掘しました。
これらの遺骨のほとんどは身元を特定することはできませんが、犠牲者の遺族を探し、遺骨をお返しする活動が今日まで続けられています。――
このように説明版や碑文の文章を紹介するのは、字数を稼ぐためではない。重要な内容が記されているにもかかわらず、月刊イオの誌面では制約がありほとんど紹介できないから、ブログで紹介しているのである。
お墓と墓標は、2001年夏、東アジア共同ワークショップで遺骨発掘作業が行われた後に、 若者たちの手によって立てられたものだ。そのときは2体の遺骨が発掘されている。
空知民衆史講座と地元の人たちによって初めて遺骨の発掘作業が行われたのが1980年のこ とである。そのときは、ここは一面、クマササで覆われていたそうである。何十年もの間、 誰にも省みられることなく、笹が墓標となっていた。だから「笹の墓標展示館」という名前がつけられた。
地元の人が、少しくぼんだところを掘るように言うと、はたして遺骨が出てきたという。 最初の発掘で6体が発見された。発掘作業は83年以後中断されたが、97年に第1回の日韓共同ワークショップ(現在の名 称は東アジア共同ワークショップ)の際に、再開された。現在まで合計22体 が発掘されている。しかし、説明版に書かれているように、ほとんどの遺骨は、朝鮮人なのか日本人なのか、身元を特定することはできないそうだ。
それでも、印鑑などが一緒に出てきたりして身元が特定できた遺骨は、遺族のもとへと返還されている。遺族に返すまでが重要な活動なのである。
判明しているだけでも200人をこえる犠牲者がいて、約6割がこの周辺に埋葬されたというのだから、一帯には、まだまだ犠牲者の遺骨が眠っているはずである。笹が生い茂っていたところに、現在はお墓ときちんとした墓標が立てられ、強制連行、強制労働の事実を明確に した説明版が設置されている。
しかし私は、被害者たちが安らかに眠れるようになったとは思わない。張本人である日本政府や企業が、心から反省せず、責任逃れを続け、何の補償もしていないからだ。
そんなことを思いながら共同墓地を後にした。(k)