無償化問題、何か問題?
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先日9月26日、日本全国から集まった同胞や日本市民たちが東京・永田町から東京駅の6キロの道をデモ行進し、朝鮮高校生への「無償化法」の即時適用を訴えた。
それにしても、なぜこれほどまでに時間がかかるのか?
朝高生たちは、いつまで支給を待てばいいのか?
記録的な猛暑が続いたこの夏、街頭で日本市民の声を集め、日本各地から東京に赴き要望を続けた人々の期待を裏切るかのように、文部科学省の判断は先送りされたままだ。
法律も保障する朝高生への就学支援金の問題を拉致問題と関連付ける国会議員がいまだにいるのなら、「子どもの教育の問題だ」と押し通せばいい。現在の膠着状態は、その理念を実行する政治家の「意志の不在」に思えてならない。
無償化適用が見送られたことを受け、今年5月に本誌にインタビューを寄せてくれた山下栄一参議院議員(公明党)は、この夏18年の議員生活にピリオドを打たれたものの、外国人学校を制度的に保障するため、国会質問や議員立法の提出に一生懸命取り組まれていた。
お話を伺った際も、「問題の解決は政府が政治的意図を捨てることしかない」と明快だった。その言葉には「こんなことが許されていいのか」という怒り、「自分がやらねば」という使命感がみなぎっており、この問題を野放しにするのなら、日本の教育全体がおかしくなってしまう、という危機感すら伝わってきた。
日本の政治、これでいいのだろうか?
山下議員の声を紹介しながら、国会議員の皆さんの奮闘を願いたい。(瑛)
「精神の自由への介入は許されない」、山下栄一参議院議員
今回の「無償化法案」の対象には専修学校も含まれたが、専修学校の場合、高校の課程に類するかどうかの基準は「中卒者を受け入れる学びの施設」であることだけで、これは学校教育法にも書いており、1年限りであろうと3年制であろうと問わない。学習指導要領の拘束も受けない。
ならば法律に専修学校と並列して書かれた「各種学校=外国人学校」も同じように外形基準をもって判断すれば足りる。なにゆえ朝鮮学校だけが教育の「中味」を問題にされ、大学入学資格の基準まで持ち出して「高等課程に類するかどうか」を判断されなければならないのか。類するか否かの基準は、学校種によって異なってはならないはずである。ましてや第三者機関を設けて朝鮮高校の教育内容をチェックするのなら、教育への不当な支配になる。国連人権規約、憲法14条、教育基本法第4条に違反する。
つまり、日本政府は朝鮮学校を外すため憲法にまで違反する「理屈」を持ち出して朝高生を受給権者から外している。このおかしさを浮かび上がらせるため、3月30日の国会答弁で鳩山首相と川端文部科学大臣に論点を一つひとつ確認し、重要な答弁を引き出すことができた。国籍、国交いかんによって差別するのか、という質問に対し、首相は「国交があるかないかといういかんにかかわらず差別をされるということがあってはならない」と答えた。民族教育の必要性について聞いたところ、文科大臣は「各種学校として認可を受け…その中で教育の中身に関しては自由が保障されている」とその意義を初めて認めた。
日本で外国人学校の制度化は、専修学校の法制化と並んで議論の対象になったにもかかわらず、こちらの方は40年以上も棚上げにされてきた。外国籍の子どもの学びをどう支援するかは中教審の場できちんと議論すべきだ。
問題の解決は政府が政治的意図を捨てることしかない。朝鮮学校が外されるなら、これは「精神の自由」に介入すること。日本の教育界が立ち上がって良識を示すべきときだ。(「イオ」2010年5月号より)