阪神・淡路大震災と朝鮮学校の避難所
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16年まえの1月17日、阪神・淡路大震災が起こった。
その日、朝起きてテレビをつけると、火と煙がたちのぼる長田の姿を伝えるヘリコプターからの映像が流れていた。大変なことが起こったと思ったが、その時点ではまったく、どれだけ大変なことなのかわかっていなかった。
その後、ぺしゃんこになった家屋やバタバタと倒れるビル、高速道路が横倒しになり駅がつぶれる映像がだんだんと映し出されるようになり、死者の数がどんどんと増えていくにつれ、どえらいことが起こったのだとわかってきた。
当時はすでに東京にいて、雑誌の編集に携わっていたのだが、神戸出身の同僚と一緒に神戸の街に入ったのは、震災から2日後の19日の夜だったと思う。陸路の交通機関が寸断されていたことと、同僚の実家が伊丹にあったので、飛行機で伊丹空港へ。同僚の実家で1泊し、翌朝バイクで東神戸朝鮮初中級学校(現在の神戸朝鮮初中級学校)へと向かった。
電車などの交通機関はもちろんすべて止まっているし、道路も避難する車で大渋滞だった。歩いて避難する人も多かった。神戸中心地へと向かう車線はまだましだったが、それでも自動車が溢れ、バイクや自転車がもっとも移動手段としては適していた。幸いこちらはつてがあり移動手段を確保できたが、目的地に到着すること自体が困難な状態だった。
兵庫県内の各地にある朝鮮学校も避難所となっていた。朝鮮学校には日本全国から救援物資が届けられており、他の避難所よりも「モノ」は豊富にあったようだ。私が集中的にいた、東神戸初中と西神戸初級学校は同胞の被災者が多かったが、周辺の日本人も朝鮮学校に避難していた。もちろん、日本学校などの避難所にも同胞が多くいて避難生活を送っていた。朝鮮人も日本人も、地震により家を失い命からがら近くの避難所に逃げ、共に助け合いながら大地震直後の困難な生活を乗り越えていたのである。
避難所となった朝鮮学校には、さまざまな人々が集まってきた。近隣の朝鮮高校の生徒が一人、自転車に乗って夜遅く来たこともあった。リュックに支援物資をいっぱい詰め込んで何十キロも自転車をこいできたと言っていた。東北の方から知り合いの同胞の安否を尋ねてきた人もいた。まったく手がかりがないので、とりあえず朝鮮学校に来れば何か情報が得られるのではないかということだった。寿司屋が来て寿司を振る舞い、散髪屋がボランティアで罹災者の髪の毛を切っていた。
震災の中で朝鮮学校が朝鮮人はもちろん、日本人にとってもその地域の重要なコミュニティ空間であることが浮き彫りになっていたと思う。
ありきたりなことを言うようだが、1923年の関東大震災の時は多くの朝鮮人が虐殺されたけれど、それから72年後の阪神・淡路大震災ではまったく逆に、朝鮮人と日本人が助け合い困難を乗り越えていた。
もしいま、同じような大震災が起こっても、朝鮮学校や日本学校が避難所となり、どちらにも、朝鮮人も日本人も関係なく避難することであろう。
震災2日目から現地に入り1週間ほど取材したが、まだ余震が何度もあった。家は燃えていた。たえず消防車や救急車のサイレンが聞こえているが、家はそのまま燃え続けていた。空にはヘリコプターが飛び交っていた。地元の同胞青年と同胞たちの家を回ったが、何度も道を間違えなかなか到着できない。地元の人たちが迷うほど街の姿が変わっていた。
私はただ通りすがりの取材者として短期間だけ震災後の街に身を置いただけだが、30年近い記者生活のなかで阪神・淡路大震災の取材はもっとも忘れられないものとなった。(k)
Unknown
あっという間の16年でしたね。私もあの頃同僚と共に大きなリュックいっぱいにボンカレー詰めてまだ余震の残る西神戸朝鮮初中級学校を訪ねました。同胞達と日本の方々が兄弟のように寄り添って過ごす姿に感動すら覚えました。駆けつけた同胞達と一緒に<トックッ>の炊き出しを手伝ったのも昨日のことのようです。
赤い月
盧進容
為すすべもなく ただ呆然と
涙流れるままに 空を仰げば
燃えさかる 炎を前にして
そこに 赤い月
泣き叫ぶ父(アボジ)と母(オモニ)
娘四十を超え 初めて授かった孫
その二人が 炎の中にいる
ぼくの同級生が そこにいる
崩れ落ちた 家の中で
ひと月に なったばかりの命
発するその泣き声が 尽きた時
炎は 二人を襲った
ああ 赤い月
涙かれた 彼女の眼(マナコ)なのか
涙うるむ その子の眼なのか
今、泣き叫ぶ 両親の眼なのか
この光景を見て
異国の月も 充血しているのか
気のせいではない 決して
そこに 赤い月
※阪神・淡路大震災鎮魂の歌「赤い月」盧進容(学研)より