再び「無償化」問題について
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先週に続いて、「高校無償化」問題に関する文章。しつこいようだけど、どうしても書いておきたいことがあるので。
日本政府による朝鮮高校に対する「無償化」手続きの停止措置が続いている。昨年11月の延坪島砲撃などの朝鮮半島情勢を口実にしたものだ。「外交的配慮」という名の下に「人質外交」をやっている日本政府の愚劣さについてはこれ以上言及しない。
今回言いたいのは、一部メディアや識者、団体による「無償化」適用擁護論についてだ。「朝鮮学校も『無償化』されるべき」という主張それ自体は肯定的に評価すべきなのかもしれないが、その論理にはどうしても違和感を持たざるをえない。
彼らは言う。「朝鮮学校も昔と比べて大きく変化していて、日本社会にも開かれている」「朝鮮籍イコール『北朝鮮籍』というわけではない」「朝鮮学校は『北朝鮮』とは関係ない」「したがって、朝鮮学校を『無償化』の対象から排除するのはおかしい」と。「朝鮮学校も変わったんだから許してやれ」、あるいは「『無償化』してあげるから、朝鮮学校も変わるべき」的な「上から目線」の物言いは大いに問題ありだ。
日本政府は朝鮮民主主義人民共和国の国籍を一貫して認めようとしない。にもかかわらず、弾圧のときだけは恣意的に「北朝鮮国民(国籍)」を作り出す。朝鮮民主主義人民共和国に対する日本社会の排外性の問題点を問うことなしに、日本政府の措置を批判しても問題の根本解決にはならない。これでは橋下徹的な朝鮮学校「無償化」排除の論理に対抗できないだろう。
朝鮮学校は日本のインターハイや選手権大会で活躍しているとか、日本の大学に進学する生徒も多いとか、朝鮮籍だけでなく韓国籍や日本籍の生徒もいるとか、彼らは日本で永住する子どもたちなのだとか、朝鮮学校の生徒は日本学校の生徒とほとんど変わらない若者なのだ、などは今回の「無償化」問題とはまったく関係ない(もちろん、これらが悪いといっているわけではない、念のため)。仮に朝鮮学校がインターハイに出場したことがなかろうが、日本の大学に見向きもしないような学校だろうが、生徒全員が「朝鮮籍」だろうが、校内に肖像画を掲げていようが、その前で万歳三唱していようが、生徒たちがみな「日本なんて大嫌い!」と言っていようが、朝鮮学校の「無償化」からの排除は許されるものではない。人権の観点からも、「無償化」の理念からしても当たり前だ。
日本政府は「高等学校の課程に類する課程を置くもの」は高校「無償化」法案における「高等学校等」に含めると定めた。法によって「高等学校に類する」ことを求められているのは、教育の「課程」であって教育「内容」ではない。
だから私は何度でも問う。朝鮮民主主義人民共和国の国民は民族教育を受けてはいけないのか? 韓国籍なら、日本籍ならいいのか? 私は朝鮮民主主義人民共和国の旅券を所持しているが、私や未来の私の子どもに初歩的な人権を享受する権利はないのか?(相)