「留学生裁判」から「高校無償化」問題を考える
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先週、「2.26朝鮮学校への『無償化』即時適用を求める大集会」のことについて書きましたが、
そこで言及できなかった問題をまた一つ、書きたいと思います。
大集会ではさまざまな団体の代表が発言を行いましたが、
その中で田中宏先生(「外国人学校民族学校の制度的保障を実現するネットワーク」、一橋大学名誉教授)は、
各種学校の認可を受けている外国人学校41校のうち、朝鮮学校10校のみが除外されていること、
そしてそれがきわめて政治的な理由からであることを指摘しながら、
かつて自身がかかわった留学生裁判のことについてお話されました。
以下に、田中宏先生の「最終講義ノート」(http://bit.ly/dYpyW2)を参考に、その内容を載せます。
「留学生裁判」とは1964年、日本政府の国費留学生が政治活動を理由に奨学金を打ち切られたことに対し、
文部大臣を相手にして起こした裁判のことです。
判決は、「留学生らは自己の意志の及びようもない自国政府の要請を常に念頭において不安のうちに勉学に従事しなければならなくなるのであって、右のような解釈は、留学生個人の意志と人格を尊重し、個人の同意を前提として留学生として採用することを基礎として成り立っている国費留学生学生制度を根底から覆すものとして、とうてい許されないものというべきである」(判例時報、555号、1969年)ということで、留学生の全面勝訴となりました。
これはすなわち、教育に政治を介入させることが厳しく戒められたということです。
この判例は、現在政治的な理由で「無償化」から朝鮮学校が除外されている事態の不当性をあらわにするものだと思います。
「最終講義ノート」の中には、こんなエピソードも。
…1963年11月、千円札が「聖徳太子」から「伊藤博文」に変った時の(ある留学生の)こんな発言は忘れられない。
即ち、「今度、千円札が伊藤博文になったが、戦時ならともかく、戦後の民主主義日本で、どういうことなのか」、
「日本で最も多い外国人は在日朝鮮人でしょう。毎日使うことになる彼らの身にもなってみたら……」、
「言論の自由が保障されている日本で、誰も批判の声をあげない。うす気味が悪い……」。
この話は「イオ」2009年4月号に田中先生が寄せてくださった、「在日朝鮮人とわたし」というタイトルのエッセイでも取り上げられていました。
この国に根をはった「朝鮮人蔑視感」は当時のみならず、今でも「高校無償化」からの朝鮮学校除外という形で露出しています。
最後に「2.26大集会」で朗読された、95歳の日本人女性が書いた詩を紹介します。
「わが10代のころより見聞きする差別なり 朝鮮人を差別する日本人はだれぞ」
「無償化は在日の問題にあらず 日本人が歴史の責任を果たすことなり」
「恥ずかしくないのか、菅さん日本人 我は恥ずかしい、朝鮮の子だけはずして」(里)