福島取材を終えて
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今週火曜日から震災取材のために福島県を2泊3日で訪れた。3月11日の地震発生後、茨城、宮城と続いた被災地取材も今回の福島で3ヵ所目になった。被害が大きかった地域のうち、岩手には行けなかったが、朝鮮新報の後輩記者が現地で取材したので、今回の震災の初動取材は一段落したと言えるだろう。今後は、各地の復興への取り組みに対する取材など、次の段階に移ることになる。
以下は、福島取材の個人的感想など。
いわき市・久之浜の様子。地震と津波、火災被害を受けたこの町は震災2週間以上が経った今でも瓦礫の山に覆われている
宮城や岩手などの被災地と福島が大きく異なっているのは、同県が原発トラブルに見舞われているという点だろう。沿岸地域の被害は他県と同様、甚大だった。同胞宅と店舗の全壊、半壊などの物的被害も報告されている。被災地のライフラインの復旧もまだだ。地震にともなう津波、火災被害だけでも大変なのに、原子力発電所の事故まで加わって、福島は震災と放射能の二重苦にさいなまれている。
今回、私が行けたのは郡山といわき市の平、小名浜のみ。もちろん、福島第1原子力発電所の30キロ圏内に入ろうという気はさらさらなかった。ただ、沿岸部でもっとも被害の激しかったいわき市・久之浜地区を訪れたいというこちら側の要望はあっけなく却下された。取材2日目にいわきを訪れた際、久之浜の自宅を失って、福島ハッキョに避難し、現在はいわき駅前の焼肉店の2階で生活する分会委員長に会って話を聞いた。その場で、現地に行って取材したいと申し出たのだが、聞けば、久之浜は屋内退避の30キロ圏内に入っているとのこと。同行した現地イルクンや同胞の反対は強かった。「われわれのようにある程度生きた中年や老人はまだしも、未来のある若者、そして子どもや女性は絶対に近づいてはいけない」と。
小名浜港の様子
小名浜港の魚市場も壊滅的な打撃を受けた
放射能問題の難しいところは、まずそれが目に見えないこと、そして内容が高度に専門的なこと。見えないから対処しづらいし、時には必要以上に不安をあおってしまう。この世界で一体何人が原発や放射能のことを理解しているのか。もしかしたら、完全に理解している人間など誰もいないかもしれない。となれば、われわれ素人にできることは限られる。一般の人の多くは、原発や放射能に関して、結局は「何を言っているか」よりも、「誰が言っているか」に依存せざるをえない。テレビや新聞で専門家が言っていることは全部それらしく思える。そして、それと同じくらい疑わしく思える。だから、信頼のおける(と感じている)いくつかのソースの情報を総合して判断するしか自分にはできない。
現状では、この問題に関してある程度開き直らないと、生活できない。そうでないと、福島県はおろか、東日本一帯は人が誰もいなくなってしまう。もちろん、細心の注意は払いつつ。
いわき駅前の様子。商業施設も閉まっているところが多かった
私は3日間しか滞在しなかったが、福島に住む人々の不安はいかばかりか。原発に近い沿岸地域は津波被害が甚大だったが、放射能汚染のせいで救助の手が延びず、被害の全容もいまだ把握できていない状況だという。同胞の中でも放射能に対する不安が日ごとに広がっている。子どもたちに与える影響が心配で、県外に避難する人も多い。「もし状況が悪化して、避難区域が郡山にまで拡大されれば・・・」そんな最悪のシナリオを想定せざるをえないほど、現地の状況は深刻だ。
あまり深刻な話をしても気が滅入るだけなので、明るい話も。厳しい状況の中でも福島の同胞、総聯の活動家は希望を失わず、救援活動と復旧活動に取り組んでいる。そして、学校の教員たちも。ウリハッキョと生徒たちに対して彼らが注ぐ愛情はすごい。いつでも学校を再開させ、延期されている卒業式と入学式を行えるよう、万全の準備を整えている。今回の福島取材で、同校の教務主任が、15年前、大学時代の教育実習で私の担当した生徒だったということが判明。そして、教育実習終了時に学校側に贈った手作りの記念品も壁に掲げてあった。
15年前の教育実習の時、福島ハッキョに贈った手作りの記念品
(相)