日本の原子力政策について考える
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先週の6日、菅首相は浜岡原発の停止を要請しました。
今後30年の間に80%以上の確率で起こるとされている、東海地震が発生した場合を考慮した上での決断だったそうです。
まずこの決断については歓迎したいと思います。
私はいわば、「にわか原発反対論者」かもしれませんが、
日本列島にある原発がすべて停止されることを望みます。
原発を抱える地方社会にとって、原発と地域経済が密接に係わり合い、切り離せない関係にあること、
また、何より大量の電気を消費している東京という大都市に住みながら、
地方の犠牲の上に成り立つ「権利」を享受している立場にあると認識しつつ、
それでも原発の廃止を訴えたいです。
もちろんそれには、私自身のライフスタイルの変化(さまざまな不便)もともなうべきだと自覚しています。
安易に反対論を推すばかりでは駄目だとも思います。
今回の福島第1原発の事故は、福島県の住民の方たちはじめ、多くの人の生活を変えてしまいました。
ふるさとを離れなければならない人、職を失う人、など、その「人生」をも変えられてしまった人も多かったことでしょう。
東京に住んでいる私も微量とはいえ、日々放射能を浴びています。正直、不安になります。
原発事故の問題は、「いのち」に関わる問題。
どんなものにもリスクは伴うけど、原発のリスクは後代にまでふりかかる深刻なリスク。
原発を手放すことで失うであろういろいろなものを鑑みたとしても、
原発と生きていくたくさんのリスクにはかなわないと思うんです。
今回の菅首相の決断を「英断」と評価する一方で、「自らのための延命策だ」などという言説もあるようです。
たしかに「どれくらいの期間停止する」など具体的な話が見えないのがひとつ心配ではあります。
一方で、今回なぜこのように「突然に」要請は行われたのかという疑問も起こります。
つい、「急を要する事態がわれわれの知らないところで起こっているのでは…」など、
疑心暗鬼になってしまいます。
原発問題=「何か隠蔽された事実があるのではないか」という疑心を抱く―。
なんでこんなことを考えるのかというと、今まで、原発で起こった事故がたびたび隠されてきた例があること、
そして今回の福島第1原発で起こった事故に関しても、完全な人為的ミスによって引き起こされた水素爆発について、
「理由はわからない」とごまかしの発表をするなど、目に余る対応がとられてきたからです。
今回の浜岡原発停止のニュースに関しても、このような今までの原発に関する対応を思い起こす限り、
何か裏を探りたくなってしまうわけです(※ここはあくまでも私の個人的な考えです)。
あともう一つ、4月30日の小佐古敏荘・内閣官房参与の辞任についても、忘れてはならないと思います。
文部科学省は4月19日、学校等の校舎・校庭等の利用判断における放射線量の目安として、
年20ミリシーベルトという基準を、福島県教育委員会や関係機関に通知しました。
一方でその決定を、小佐古内閣官房参与は自らの辞任をもって反対した、このことが示す意味を深く受け止めなければならないと思います。
NHK「かぶん」ブログ
官房参与の辞任・記者会見資料
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html
今回、浜岡原発の停止が実行され、日本の原子力政策が大きく見直される契機となればと思います。(里)
お久しぶりです
豊橋市は、浜岡原発から70キロしか離れてないんで正直不安です。
原子力は、国策と言う方がいますが、経済発展より、人命の方が大事だと思います。
忌野清志郎さんの歌を、買いましたよ。
親会社の東芝からの圧力で発売禁止になって、新聞の全面広告に『素晴らしすぎて発売出来ません』と清志郎さんがレコード会社に掲載しろ!と言ったらしいです。
天国で、どう思ってるかな?
たけちゃんさんへ。
豊橋にお住まいなのですか?
豊橋はそうですね、愛知でも静岡寄りですよね。
忌野清志郎さんの「サマータイム・ブルース」ですか?私も聞いてみたいと思います。
20年も前の歌なのに歌詞がひびきますね。