「Fukushima50」
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本誌「イオ」7月号から始まった新連載、「被災地はいま」。宮城、岩手、福島など東日本大震災の被災地に住む同胞に原稿を依頼し、現地同胞社会の今の姿を伝えてもらうという企画です。7月号は宮城、つい先日出来上がった8月号には福島の様子が掲載されています。現在編集中の9月号は岩手からの便りになります。
この連載は、被災地に住む同胞たちの声をより直接的な形で伝えたいという思いから始まったものです。文章がところどころ拙く、洗練されていなくても、現地で震災を経験し紡ぎ出した彼らの言葉は圧倒的なリアリティを持っていて、読むたびに多くのことを考えさせられます。
被災地からの便りを読むと、取材の過程で出会った人々、起こった出来事なども思い出されます。
今回は3月の宮城取材で出会ったHさんのことについて書きます。
大阪出身で、現在は漁業に携わっている(本人からは、「漁師やってます」と紹介されました)Hさんは震災当時、仕事がちょうどオフの時期で、被災地の惨状にいてもたってもいられず、東北朝鮮初中級学校に駆けつけてきました。私が現地入りした(17日)翌日だったと思います。
40代半ばで、大阪朝高時代はラグビー部に所属していたというHさん。体格も大きく、強面です。物資の積み下ろしや遠方の被災同胞訪問、炊き出しの手伝いなど、先頭に立ってフルに働いていました。
Hさんに関して忘れられない出来事が一つあります。宮城滞在3日目の19日、救援隊に同行して気仙沼市に入ったときのこと。救援物資を持って同胞宅を回り、地域の日本の中学校に設置された避難所にも物資を届けました。
一通り仕事を終えた後、津波被害を受けた海岸近くの一帯で写真撮影をしていた時。「ここにも避難所がありましたよ!」とHさんの叫ぶ声。道路脇にあった小高い丘を階段で上ると、その上には神社が。神社の境内は即席の避難所になっていました。「避難者を目の前にして、そのまま通り過ぎるわけにはいかない」。一行はすぐに車に戻り、積んであった食料品、灯油、医薬品などの救援物資を神社に運びました。
学校や公共施設にある避難所とは違って、目立たない場所にひっそりと設置された避難所。震災直後の混乱の中で物資も決して十分ではありませんでした。「震災後初めて薬をもらった、本当に助かる」という被災者の涙混じりの言葉に、一同は言葉を失いました。
Hさんのおかげで一行は、より多くの被災者を助けることができたというわけです。
1週間に満たない滞在期間でしたが、強い印象を残したHさん。学校関係者と「今度、漁で取れた海産物を送りますよ」という約束も交わしていました。仙台では、仕事を終え現地を発つ人がいると全員で見送るのですが、Hさんが去る時の見送りはひときわ盛大でした。
救援物資隊の陰に隠れてあまり知られていませんが、この間、Hさんを含め少なくない同胞ボランティアの方々が被災地入りしました。朝青員を中心とする正式のボランティア隊が結成される前です。Hさんには何度か取材を申し込んだのですが、「頼むから出さんといてくれ」と念を押されたので、今回のブログを通じてこっそり触れました。
「Fukushima50」(フクシマ・フィフティ)。東京電力福島第1原子力発電所の危険な事故現場に残り、懸命の事故処理にあたった作業員、関係者らを海外メディアはこう呼んで賞賛しました(初期は50人だったようです。現在はもっと多いですが)。
同胞社会にもいます、「Fukushima50」や「Yagiyama50」が。現地の専従活動家、同胞、各地から駆けつけたボランティアなど、当時も、そして今も被災地で懸命の同胞救援活動に従事する人々です。決して華やかなスポットライトを浴びることはありませんが、彼らの地道ながんばりがあってこそ復旧、復興への道が少しずつ開かれているのだと思います。
今週の日曜(24日)、郡山市の福島朝鮮初中級学校で3回目の放射性物質除染作業が行われます。県外からも多くのボランティアが駆けつける予定です。参加者は過去最大規模になることが予想されます。
そしてもう一つ。校庭の汚染表土除去作業において、朝鮮学校が行政の支援の対象から外されようとしています。未曾有の災難の最中にあって、人の命に値段がつけられ差別化されるという由々しき事態です。(相)