名前のこと
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このブログはイオ編集部の部員たちが交代で書いていますが、名前全部を出さずに(愛)などと一字だけ使い、区別しています。私だけが(k)と英字で、後は全部漢字。
日刊イオの読者には、(k)こと私の本名を知っている人も多いけれど、日本の方を中心に本名を知らない人も多いことでしょう。本体の雑誌の月刊イオには編集部全員の名前が目次に明記されていますが(写真)、日刊イオは読んだことがあるが、月刊イオは手にしたことがないという人もいることと思います。イオを手にとる機会があれば、ぜひ目次を開いて編集部員の名前を確認してください。
ということで、今日は名前について書きたいと思ます。名前は基本的に一生、その人についてまわるものです。たいへん重要なもの。しかし、自分で自分の名前をつけることはできません。物心がついて、自分の名前が気に入らなくてもどうしようもない。
私もそうです。自分の名前をあまり気に入っていません。理由は特にないのですが、ありふれているという感じがしています。朝鮮人の名前としてよく使われる字が2文字合わさってできた名前だからです。しかし、面白いことに、私と同じ名前の人とは、これまで4~5人しか会ったことがありません。漢字までまったく同じ人とは一人も会ったことがない。ついでに書いておくと、私は名前の2番目の漢字をよく間違えられます。「哲」ではありません。
私が自分の本名を使うようになったのは9歳から。それまでは「日本名」を名乗ってました。しかし、「本名を使うようになった」といっても、そのときは名前の漢字を日本式に読んでいたので、本当の意味で本名を使っていたとは言えません。朝鮮語読みの本当の本名を使うようになったのは大学に入った18歳からでした。
だから、幼少の頃から私を「日本名」で呼んでいる親戚はいまだに「日本名」で呼ぶし、高校時代の知り合いと会うと日本式の読み方で呼びます。
大学に入って本名を名乗るようになった時の経緯や心境を書くときりがないので書きませんが、本名に変えた瞬間から、何の違和感もなく、「自分の名前」だという感覚というか感情を持つことができました。逆にものすごく解放感を感じました。不思議なものです。そのときにはすでに、「創氏改名」のことを知っていたからかもしれません。本人よりも、子どもの名前の呼び方を変えなければならなかった親の方が戸惑ったことでしょう。今度、どういう心境だったか聞いてみたいと思います。
朝鮮が解放されて(日本が敗戦して)60年以上が経ちますが、今も多くの在日同胞が「日本名」を使っています。それは本人の問題もないわけではありませんが、多くは日本社会に問題があります。朝鮮名を使うと「不利」になる状況が日本社会にあるからです。
芸能人が芸名を使ったり作家がペンネームを使ったりして、本名とは違った名前が世間で広がって、そういう状態で何十年も暮らしているという場合がありますが、そういう人たちは、芸名(ペンネーム)と本名の折り合いをどのようにつけているのでしょうか? 芸名で呼ばれる方が圧倒的に多くなると、それが本当の名前のように思えてくるということもあるのではないかと思います。それとも、仕事と私生活できっちりと名前に対する感覚もわけているのでしょうか?
最近、気がつくと、私の周りの日本人で、本名とは違う名前を日常的に使う人が何人もいるようになりました。ネットという世界が広がってからだと思います。「自分の名前が気に入らないから」という人も多いでしょうが、ネットで何かを主張する時に、ペンネームのようなものを使うようになり、それを日常生活でも使うようになったというパターンは確かにあるようです。
また、いろんな主張をもった人たちにとって、日本社会が在日朝鮮人が思っているのと同じように住みにくいというか、より圧迫を感じる社会になっていて、それも本名とは違う名前を使う理由なのではないかと考えています。
戸籍制度にはじまり、日本社会のこれまでの枠組みに抵抗するひとつの手段として別名を名乗るという、そんな感じも受けたりします。
私は現在、どんな場合にでも本名の朝鮮名を使いますが、それも日本社会に対する私なりのひとつの抵抗でもあります。
そう考えると、名前というのは面白いものです。(k)
本名は「ムキンポ」
私の戸籍名(秘密)を人は本名と呼ぶ。しかしそれは戸籍名ではあっても必ずしも本名とは言えないのではないか。今では「ムキンポ」こそが私の本名としか思えなくなっている。「かめよん」はニックネーム、金浦蜜鷹(コノウラミツタカ)はペンネーム、戸籍名は社会生活を送るうえで必要な法律上の記号って感じかしら。
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この前ボクが出ている時にたまたまテレビがついており、それを見ていたところ、報道人がボクの名を読み違えて「鬼薔薇」(オニバラ)と言っているのを聞いた
人の名を読み違えるなどこの上なく愚弄な行為である。表の紙に書いた文字は、暗号でも謎かけでも当て字でもない、嘘偽りないボクの本命である。
(「酒鬼薔薇聖斗」が神戸新聞社へ送った声明文より)
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Unknown
kameさま、コメントありがとうございます。確かに、一般的に本名と呼ばれるものは戸籍上の名にすぎないという考え方もあるのでしょうね。朝鮮人の私の場合、トルリムチャといって、土、金、水、木、火と代により漢字に入る文字が決まっていたりして、親がつけた自分の名前をあまりむげにできないという感じをもっています。
たけちゃん
たけちゃんは、たけひろからです。
昔から言われてるし、苗字で言われると違和感があります。
つかこうへいさんは、日本と朝鮮が『いつか公平』になるように名乗った名前、とても素敵で重い名前です。
名前って大切ですね?
たけちゃんさんへ
いつも、コメントありがとうございます。
つかこうへいさんの名前の由来は聞いたことがあります。とても素敵ですよね。あだ名も、それが慣れてくると、本当の名前のように思えるものですね。
Unknown
私の名前は漢字で書けば「玉汝」ですが本当のハングル表記は(옥여)です。でも発音は(オンニョ)です。朝鮮の文法を知らない方は(オギョ)と読んでしまいます。それでアボジが、オギョと呼ばれてはかわいそうだからと文字自体を(옥녀)と書きなさいと言いました。内情を知らないオルシン達が新報などで名前を見て「あなたの名前は(옥녀)じやなく(옥여)と書くのですよ」と御親切に3通もお手紙いただいた事があります。そのたびに苦笑いしながらお返事を書いて送りました。今日のブログを読んでこんな事を思い出しました。コマッスムニダ!
オンニョさまへ
いつもコメントありがとうございます。
なるほど、そういう事情があったのですね。アボニムの愛情が伝わってきました。
Unknown
娘の名前は裕佳です。シオモニがつけてくれました。もっとコテコテのチョソンサラムっぽい名前になると思っていたのでびっくりしたのを覚えています。
その事をシオモニに伝えると、誰がどのように読んでも『ゆか』と呼ばれるからそれが良いんだと言ってました。
どんな環境にいても同じ名前で呼ばれるのが自然ー日本社会の中でイチイチ珍しがられるのが嫌で、ウリマルで読んでも日本語で読んでも同じ読み方になる名前をつけることはある意味での『逃げ』になると考えていた私にとって、とても新鮮な意見で、そういう考え方もアリだなーと共感できました。
娘にも良い名前をつけてもらったと思ったものです。
それなのに、入学式の日、校長先生が娘のことを『(유가)ゆが』と呼んだ時は、そうなっちゃうの?とショックでした。
今ではみんな普通に『ゆか』と呼んでいます。