第1号の朝鮮ユチバン
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11月号の特集「ようこそ! ウリ幼稚園へ」の取材にかかわりながら、よみがえった記憶があります。
日本で初めて創立された朝鮮幼稚園―鶴見朝鮮初級学校付属幼稚園のことです。1997年に新校舎が建てられ、デザイン性も兼ね備えた幼稚班の園舎に注目が集まったのですが、その時、創立当時に教員を務められた陳孝宣さんに出会いました。当時、双子のお孫さんが、園に通っておられました。
鶴見朝鮮幼稚班第1期卒園記念写真(1954年3月、同校HPから)
陳さんは、民族教育史上、初めて朝鮮幼稚園の先生になった方です。設立された1953年当時は園児が48人で教員が1名。鶴見朝鮮初級学校が日本当局から閉鎖された後、公立小学校の分校として、かろうじて民族教育の灯火を守っていた時期でした。東京・狛江にあった朝聯の教員養成機関の第2期生だった陳さんは、当時、鶴見朝鮮学校の音楽担当教師だったといいます。
「朝鮮学校の戦後史 ―1945~1972―」(金徳龍著、2002、日本評論社)には陳さんの発言が載っており、当時の同胞たちの生活がどうあったのかを知ることができます。
…当時…ほとんどの同胞たちが「ニコヨン(日雇い労働者)」で今みたいな職業に当たっていなかった。そのニコヨンの状態でオモニたちが幼い子らを、そのまま家に置いておくことができないために、何とかならないかということから出てきました。…(幼稚園の創立は)生活のためだったんですね。
…学識のある一部の同胞(例えば当時の本部委員長とか)が率先して、何人かの人たちのところを回りながら「なんとかしなければいけないんじゃないか、こどもの将来も考えないと」ということで、それじゃお金のある方(リヤカーを引いて鉄クズを買い歩く古物商。オート三輪車は何軒かあった)にも言って協力を求めながら、だんだん輪を広めたわけですよね。一般同胞も「それならいいわよ」と言って、最低の生活の中でみんなして、お金を出し合って幼稚園を作ったんです。
…開園当初はカリキュラムもなにもない状況でした。…自分でカリキュラムを組むのにどうしていいかわからないために、日暮里にあった「キンダー・ブック社」に行きました。
…まずはこどもたちに歌をうたわせ楽しませる。しかし、その当時、幼稚園で歌うような朝鮮の唄がそれほどなかったから、小学校でうたうような歌で一番やさしいものを歌いました…
…「アンニョンハセヨー、アンニョンハセヨー」というふうに挨拶をする。そうするとアンニョンハセヨーという言葉そのものがわからなくても、何回か繰り返しているうちに挨拶はこういうものなんだなーとわかってくるわけね、反復で一つの言葉を覚えるっていうか。だって、アボジ、オモニという言葉もわからなかったんですから…。(「朝鮮学校の戦後史 ―1945~1972―」から)
朝鮮幼稚園の創立年を調べてみると、1960年代から幼稚園が続々と設立されていきます(閉園されたユチバンもあり、全貌は調べられませんでした)。
来年40周年を迎える埼玉朝鮮幼稚園は1972年の創立ですが、成元根という方が民族教育は幼少期から始めなくてはならないと、ご夫婦で奮起して建設を進められたそうです。残念なことに成さんは帰らぬ人となってしまいましたが、畑には成さんの名前が書かれたサルスベリの木が青空に向かって伸びていました。
貧しい生活を支えながら、手探りで作られてきた朝鮮幼稚園の歴史。その中には子育てのヒントがたくさん散りばめられている気がします。(瑛)
鶴見は幼稚園だけではなく…
鶴見は、幼稚園だけではなく、「朝鮮語講習所」も全国的に初めてでは?
同校のHPによると-
1935年9月 横浜朝鮮人労働者同盟が建てた鶴見区仲通の労働会館で、労働者子弟たちの夜間朝鮮語講習始まる。
http://kanagawa.pekdu.ac.jp/user/tsurumi/about_4.html
「ポチョンボ チョントゥァ」の前です。
1953.4 付属幼稚園 併設。民族教育史上初の朝鮮幼稚園
園児 48名 教員 1名、同胞たちの手によるプレハブ園舎からのスタート。
http://kanagawa.pekdu.ac.jp/user/tsurumi/about_4b.html
HPの写真にに載っている方が陳先生なのでしょうか?
『朝鮮学校のある風景』編集・発行人 金日宇