小説「私の学校」
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新潟朝鮮初中級学校では、福島朝鮮初中級学校の子どもたちが5月末の運動会に向け、合同授業を始めたという。
この福島初中が創立された1971年から教員を務めた姜一生さんが書かれた「私の学校」(同時代社)は30年前の1982年に出版された。
…二千人足らずの同胞達が、福島県内に分散的にすむ条件と、学校が位置する地理的条件のため、初・中級学校としては全国でもめずらしく、初級1年から中級3年まで、全寮制の学校としてスタートした。
…人里離れたこの地には電気も水道も引かれていない。そこで学校の子供達のために父兄が多額な資金を投じて、1キロほど離れた部落から電気を引き、水も部落の前を流れる川の横の水田に井戸を掘り、山の上へ通して来た…(「私の学校」から)
小説の主人公は著者とも重なる教師・英哲。
物語は冒頭、たまの連休に実家へ戻る子どもたち見送る教員たちの慌しい様子が描かれる。
しかし、中には子どもを迎えにこられない親もいて、「英哲は異国に住む在日朝鮮人の不安定な職業や、この子供達に見る複雑な家庭環境を考え合わせてみる」。
とくに英哲と同僚の久美先生は、日本学校から転校してきた順伊、妹の順子の二人の姉妹が気になっている。両親が不仲で寂しい思いをしているからだ。二人を不憫に思う英哲と久美は、休み返上で泊まり先を手配したり、ドライブに連れていったり、習ったウリマルを反復させたりと余念がない。
そして、小説は順伊のアボジが朝鮮で新しい人生を始めたいと、「帰国の決心」を固めたことから急展開する。母親への愛情に飢える幼い姉妹、日本での差別に苦しむ父親…。両親の狭間に揺れる姉妹を前に、英哲と久美の葛藤は募る…。
英哲も教員である前に一人の人間だ。小説では、体が弱っていく母親を前に教員を続けるか否かを葛藤する英哲の苦悩も描きだされる。女手一人で息子・英哲を育ててきた日本人の母・清。教職に心血を注ぐ息子や久美を見守る母のまなざしは常に温かい。
著者は闘病生活を送りながらこの小説を完成させ、30代の若さで亡くなった。
福島における民族教育の始まりを温かく伝えてくれた「私の学校」。亡き姜先生に感謝の言葉をささげたい。(瑛)