南から親戚が来ました
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沖縄取材記は今回は一旦お休み。
※一体いつまで続くんだと思っている皆さん、すみません。
今週、ソウルから親戚が来ていて、親族で食事をする機会があった。
植民地支配下の朝鮮に生まれて日本で解放を迎え、朝鮮戦争時にふるさとのある朝鮮半島南半部に帰った大叔父(故人)の息子家族と、今回初めて会うことになった。
私より6つ歳下の再従兄弟は恥ずかしがって中々話してくれなかったが、ご夫婦はとても気さくな方々で、すぐに親しくなれた。別れ際には「ソウルに来たら必ず連絡を寄越しなさい」と何度も何度も言ってくれて、心の中では(今は行けない…MBのせいで…)と毒を吐きながらも、笑顔で約束を交わした。
こうして離れて暮らす親戚が出会うことは、いち家族にとってももちろん喜ばしいことだが、朝鮮民族の分断史にのせて考える時、今この瞬間はとても歴史的である、と中華料理屋でバンバンジーなんかをつつきながら考えていた。
私自身は南にいる親戚と会うこと自体、これが初めてだったのだが、 北に暮らす親戚とはこれまで数回会ってきた。
両方の親戚の存在を確認することで、当たり前ではあるが、自分のルーツが確かに朝鮮半島にあるのだということを、実感として感じることができた。
それと同時に、もしも植民地支配がなかったら、もしも分断されていなかったら、北と南、日本に離散することなんてなかったのに、と思わずにはいられず、楽しい食事の席でも、ふるさとに自由に行くことも、親戚同士が会うこともできない今の状況を嘆いていた。
こんなことを書くとまた「じゃあ、北でも南でも好きな方に帰ればいい」なんてヘイトスピーチが聞こえてきそうだが、この稀な離散状況を想像したことがあるかと、想像することができるかと問い、その責任が日本による植民地支配にあるという事実を突きつけたい気持ちになる。
親戚の一人が南の戸籍謄本を持ってきて見せてくれたのたが、そこには除籍された親戚の名前もあり、「朝鮮籍」で「在日」の親戚の名前も記されていた。その興味深い戸籍謄本をめぐって、親戚一同で様々な話がなされた。先代一人ひとりの名前を確認しながら、その時代時代が反映された個人史を振り返ることは、とても大切なことで、子孫である私たちがしっかりと記憶、あるいは記録しておかなければいけないと思った。
会話中、私たちの国籍の問題など、分断状況ゆえに浮上する問題には耳が痛かったりもしたが、総じてとても有意義な時間だった。
余談だが、来年70歳を迎える大叔父(日本在住)が、私にだけにこっそり語ってくれた「平壌で果たしたい晩年の夢」があまりに素敵だったので、とても嬉しくなった。夢の内容は、大叔父と私だけの秘密。
取り留めのない内容になってしまったが、今回はこんなところでお終い。来週からはまた沖縄取材記を再開します。(淑)
届きました。
先日、イオ8月号が届き、読み終えたところです。ありがとうございました。
全ての記事が新鮮でとても感動的でした。
私的には、その中でも”ピョンアリたち”がとてもほほえましく、温かい気持ちになりました。社会全体で、次世代を包んでいるという感じを強く受けました。
炎暑の下での取材等、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
豊見山さんへ
豊見山さん、お久しぶりです。お元気ですか?
ご丁寧にコメントをくださりありがとうございます。
私こそお礼を申し上げなければいけません。沖縄の人々から、他でもない私自身がたくさんの力を得ました。本当にありがとうございました。豊見山さんはじめ皆さんと、いつか必ずまたお会いしたいと思っています。
昨日ついにオスプレイが岩国に陸揚げされ、沖縄配備もいよいよ現実に迫ってまいりましたね。炎暑の中、厳しい闘いが続くと思います。高江での強行的な作業しかり、病人や負傷者が出ないことを祈るばかりです。
豊見山さんもくれぐれもお体にお気をつけてください。