渡嘉敷島を巡って ~沖縄取材記⑧
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取材記第7回は、朝鮮人と縁の深い渡嘉敷島の各所をめぐったことを。
沖縄戦における「集団自決」の生存者の方にお話を伺いに、那覇市の泊港からフェリーに乗って渡嘉敷島へ向かった。
渡嘉敷島は那覇市から西へおよそ30㎞、慶良間諸島の東端に位置し、透明な海と世界屈指のサンゴ礁、数々の熱帯魚に彩られ、ダイビングスポットとしても有名な、景観美しい島。
一方で、沖縄戦で米軍の上陸地、激戦地であり、「集団自決」によって300人以上の犠牲者を生んだ歴史を持つ。
渡嘉敷村を案内してくれたのは、吉川嘉勝さん(72)。「集団自決」の生存者であり、この村の歴史ガイドを務めている。
(写真上:「集団自決」場跡の碑/下:戦時中、住民が避難するために掘られた民間壕の跡が村の至るところに残る)
軍隊のみならず、多くの民間人を巻き込んだ沖縄戦。朝鮮半島から強制連行された約1万人の朝鮮人が犠牲になったといわれている。
ここ渡嘉敷島にも210人の朝鮮人軍夫と7人の日本軍「慰安婦」がいたとされている。
上の写真は特攻艇秘匿壕跡地。旧日本軍の「海上特攻艇」を格納するために作られた秘匿壕。碑文にも書いてあるが、壕の掘削は、過酷な労働条件のもと主に朝鮮人軍夫があたったと伝えられている。
渡嘉敷島南方の山中腹にある、日本軍「慰安婦」を追悼して建てられた「アリラン慰霊のモニュメント」。
字渡嘉敷河口近くの慰安所跡地。赤瓦の家(強制接収された吉川さんの叔父の家)を「慰安所」としたという。現在は民家が建っている。
「朝鮮の女性たちを何度か見たことがあります。彼女たちの肌の白さに、子どもながら『素敵だな』と思いました。慰安所の前には当時川が流れていて、そこで女性たちは日本軍が使用したサックを洗っていました。それを風船だと思ってふくらませて遊んで、母に怒られたことがあります。異国の地に強制連行された朝鮮人の両親や家族たちは、どんな思いで息子や娘の帰りを待っていたのだろうと思うと・・・」
戦時中、朝鮮人「慰安婦」を見たという吉川さんの述懐だ。
沖縄の戦場へ送り込まれた朝鮮人は、半数が亡くなったといわれているが、正確な数、実態はまだまだ明らかになっていないことが多い。
朝鮮人として沖縄の問題を考えるとき、戦後、朝鮮戦争をはじめアジア諸国への米国の侵略戦争に組み込まれていく歴史を捉えるとともに、沖縄戦における、不可視化された朝鮮人の歴史を発見し、明確に伝えていくことも、見過ごしてはいけない。(淑)