奉奇ハルモニのおはなし
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先週土曜、ブログで告知したwamのセミナーに行って来ました。
ゲストの金賢玉さんは、1972年、沖縄の本土「復帰」直後から総聯の活動家として沖縄で活動を始め、75年に奉奇ハルモニと出会ってから、91年にさんが亡くなるまで、さんを傍で支え続けました。セミナーでは、さんとの交流に重きを置いてお話しされたのですが、本当にいいお話をしてくださったので、少々長くなりますが、一部を紹介したいと思います。
先週末といえば、台風で空は大荒れ。金賢玉さんは、「朝鮮の諺に“동무찾아 강남간다”という言葉がありますが、暴風の中、沖縄からやってきました」と柔らかい笑顔と語調で話し始めました。
奉奇ハルモニの話をする金賢玉さん
奉奇さんが亡くなってから20年以上が経過しているにも関わらず、賢玉さんのお話はまるで、さんとついさっきまで会っていたかのように、鮮明でした。さんの言動、癖、好きだったもの、不安…、心の一番近くで支え続けた賢玉さんにしかきっと話せないであろう具体的なお話でした。お話からは、朝鮮植民地支配と戦後の沖縄、激動の現代史を生きた奉奇という一人の朝鮮人の人生と思想までもが浮かび上がってきました。そしてこれが、日本軍「慰安婦」問題を考える上で、在日朝鮮人という主体として私たちが知っておくべき人生―歴史であり、現在にもつながる共通の体験でもあると認識しました。
75年、賢玉さんらがさんと初めて会った頃、さんはサトウキビ畑の中の小さな小屋に住んでいて、その小屋には窓もなく、立ち上がると天井に頭がぶつかるくらいの狭さだったそうです。潔癖だったというさん。壁の至る所に空いた隙間には、タバコの銀紙を挟んできっちりとふさぎ、部屋に干してある洗濯物は、布巾も雑巾も見分けられないほど真っ白だったそうです。
(現在wamには茶碗などのさんの遺品が展示してあり、それらは質素ながらもぴっかぴかで、さんの生活そのものが伝わってくる)
「亡国の民となり、「慰安婦」とさせられ、解放後も独り苦しむさんの姿を見て、朝鮮人として、さんと生きなければいけない、と思った」。賢玉さんは当時29歳。それがさんとの出会いだったそうです。
賢玉さんらがさんを訪ねると、機嫌のいい日は「入って入って」とお茶や駄菓子でもてなしてくれたそうです。ですが「次はいつ来るね?」と、約束して次に訪ねても、調子の悪い日は鍋を叩いたり、大声でわめいている声が、サトウキビ畑から聞こえてきたといいます。拒絶をされることも1度や2度ではなく、それでも賢玉さんらは、さんの具合や都合に合わせて根気よく訪ねたそうです。
最も印象深かった話は、さんが賢玉さんらと出会い、「朝鮮人として」の様々な経験を重ね、「朝鮮人として」物事を見聞きする過程で、さんの心が変わっていったという話でした。
出会って間もない頃は、在留資格の更新などのために役場へ行くと(読み書きができなかったさんに、いつも賢玉さんらが同伴していた)、職員に向かってさんは何度も何度も頭を下げていたそうです。賢玉さんらが、「アジメ、そんなにペコペコせんでいい。朝鮮人はもう昔の朝鮮人じゃない」、そう何度諭しても、さんの癖は簡単に直らなかったそうです。賢玉さんはその姿に、「朝鮮語も、朝鮮料理も忘れて、履き古しの靴みたいに捨てられて…本当に胸が痛んだ」と話しました。
ですが、賢玉さんらと共に過ごしながら、朝鮮料理の味を知り、歴史を知って、総聯の活動や沖縄の人々の闘いを目撃していく中で、少しずつ意識が変わっていったといいます。
「慰安婦」としてのつらい体験を語った経験もそうです。
賢玉さんらに、「アジメが話すことで、被害を受けた人たちや在日同胞たちが立ち上がっていくきっかけになるよ」と励まされながら、「じゃあまた頑張らんといけんね」と言って勇気を奮い起こして語ってきたそうです。それでも取材のあとは1ヵ月も2ヵ月も寝込んだそうです。寝たり起きたり食べたり、平穏に過ごしてやがて落ち着きを取り戻しては、また語る…その繰り返しだったといいます。
そうしているうちに、初めの頃はことあるごとに、「友軍が負けて悔しい」、そうも話していたさんが、昭和天皇死亡の際には「なんでね? 謝りもせずに。賠償もせんと」と憤慨し、また、88年のソウルオリンピック開催時に故郷へ行こうと持ちかけると、とたんに涙をぽろぽろこぼしながら、「行きたいけど行けないさ」と話したそうです。理由を聞くと、「だって向こうには米軍基地があるじゃないか。自分のふるさとだけど、今は行けない」と分断状況に悲しんでいたそうです。
総聯沖縄本部の事務所、朝鮮半島の地図を眺める奉奇さん
「さんは、朝鮮は統一しなければいけない。必ずできるんだ、という信念を持っていた」と、賢玉さんは話してくれました。「貧しかった自分の運命を呪い、解放の喜びも知らなかったさんが、民族や尊厳、人間らしさを一つひとつ取り戻し、自分の力で獲得していった。それは私たちの喜びでもあり、在日同胞みんなの喜びでもあった」。
そうして晩年は、賢玉さんらの活動を手伝ったり、同胞の集会や連帯集会などにも参加して、時にはドライブ(さんは「ドライバ」と言っていた)や旅行、大好きな温泉も楽しみながら、穏やかに、そして堂々と、人生を全うしたそうです。
今、韓国日本大使館前での水曜デモは1000回を超え続いており、被害女性たちと支援者たちが力強く運動を推し進めています。91年、金学順さんが被害者として名乗りをあげてから、多くの被害女性たちが勇敢に立ち上がる姿を、さんは見ることはできませんでした。でも「さんの小さな点は、20年過ぎた今もつながっている」、そう賢玉さんがそう話すようにさんの存在が、日本軍「慰安婦」問題において一つの起点であることは間違いありません。
先日、韓国から来日していた日本軍「慰安婦」被害者である金福童ハルモニは、「軍による強制連行を示す確たる証拠はない」と発言した橋下大阪市長に対し集会の場で、「ここにいる私が証人だ」と訴えました。また、朝鮮学校へ寄付金を渡し、毎週火曜、大阪府庁前で行われている朝鮮学校への「無償化」適用と補助金支給を求める集会にも参加されました。
これに対して、韓国から来た86歳のハルモニの面会を避けておきながら、後になって「会ってもいい」などと自身の体面を取り繕う橋下市長の姿は、度し難いほどに醜悪です。(淑)