体罰による自殺事件に思う
広告
体罰により高校生が自殺した事件が大きな社会問題となっています。テレビでこの問題についての報道や人々のコメントを聞いていて、様々な感想を抱くとともに、昔の中学時代のことを思い出したりしました。
中学に入学し、スポーツでもやったほうがいいかと思ったことと、仲の良い友人らが複数入るというので、とある体育部に入部しました。まったく強くも有名でもなかった部なので、専門家の先生がいて指導するということもなく、2年生が1年の面倒をみていました。入ってすぐはボールを触らせてもらうということは当然なく、基礎体力をつけるためのトレーニングが繰り返されました。しかしそれは、校舎の長い廊下の端から端まで何往復もうさぎ跳びをさせられたりと、合理的なものでも個々人の体力に合ったものでもなく、前近代的なシゴキと言えるもので、それが毎日繰り返されるのでした。
あまり部員が多くても困るので、2年生たちは、ふるいにかけるためシゴキをしていました。また、1年前に自分たちがそのようなシゴキを受けたので、「復讐」という感じで強要する2年もいました。殴る蹴るということはなかったけれど、明らかに、いじめ、体罰だったと、いま振り返ってみて思います。それが馬鹿らしくて1ヵ月ほどで部を辞めました。
いじめの問題も体罰の問題も、テレビのコメントを聞いていると、いじめられる側がどうのこうのとか、体罰をする側とされる側の人間関係だとか、指導方法がどうのとか、ごちゃごちゃといろんなことを言っている場合が多いですが、そんなことはまったく関係ない。いじめは悪い、体罰は悪い、差別は悪い、根絶しなければならない、ということを揺るがせない絶対的な前提としなければ解決の一歩を踏み出せない。
体罰の問題とは少し違いますが、「人間はみな平等」と言いながら、そうなっていない世の中があり、「すべての人間が平等になるなんて不可能だ」ということも言われます。しかし、そこに向かって努力するしかない、その努力の中で、差別やいじめの問題も解決していくのではないかと、夢のようなことを思っています。(k)
Unknown
大阪の高校バスケット部員の自殺、第一印象は「またか」です。「日本の子どもたち」というサイトに、学校でのイジメや部活内でのシゴキなどで命を落とし、傷ついた子どもたちの事件簿があります。要するに、神代の昔から、同種の事件は繰り返されているのです。
私自身は、加害者の残虐性(なぜ、刑事立件され、懲役刑を受けないのか?)とともに、この種の事件でいつも思うのは、被害者側の人権意識です。自分に「人権がある」という意識が根本から欠けている、だから、殴られても不当だという怒りをもてない、自分の人権が蹂躙される場を離れることができない(自分の命を守れない)、自分の人権を大切にできないから、他人のそれも粗末に扱う。
私は、最初から知っていたので、運動部には関わりを一切持たないよう気をつけて中高生活を送りました。運動部の人には、近寄らないようにしました。人らしく生きたいからです。
人権意識を共有できない人に、私は何の関心もありません。ですから、被害者の生徒に、あまり同情する気はありません。自分の手で捨てた人権なのだから、自己責任だよね、という言葉を手向けたいです。