ウリハッキョ
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人生で一度だけ「勉強を頑張った」と胸を張って言える時期があります。朝鮮学校高級部での3年間は私にとって本当に貴重な学びの時間で、言葉通り毎日必死に「ウリ」のことを勉強する日々でした。
中学校まで日本学校に通っていた私は、「○○小学校→○○中学校→○○高校(いずれも地元の町名)」と学校の名前に変化がないのが嫌で、高校からはウリハッキョに入ろうと決めました。それは冗談で、小さい頃から自分が「朝鮮人」だとは教えられていたため、ただ単純に言葉を学びたい、同じ朝鮮人の友達がほしい、と思ったからです。
私より小さい子どもたちが流暢にウリマルを話す姿も、トイレに張られたウリマルのポスターも、下校の時間に流れるウリノレも、初めての経験でした。日本学校に通っている時も自覚はあるつもりでしたが、何か新しいことを学ぶたびに「あ、自分って本当に朝鮮人だったんだ!」と改めて感じたのを覚えています。
音楽の授業では友達が歌詞の上にカタカナでルビをふってくれて、それをたどりながらウリノレを歌いました。歌詞の意味も分かりませんでしたが、みんなと同じように歌えたことが嬉しくて授業が終わっても口ずさんでいました。初めてウリマルで両親に手紙を書いたときは、2人の喜ぶ顔を想像してワクワクしました。
もちろん楽しいことばかりではなくて、国語の時間に教科書がスラスラ読めないのがもどかしかったり、「ウリマル100%運動(ウリマルだけで生活する期間)」のときに肩身の狭い思いをしたり、間違いを指摘されて恥ずかしさのあまりムキになったり。そんなことがあるたび、寄宿舎の部屋に誰もいないのを見計らって必死で教科書を音読し辞典で言葉を探しました。でもそれも全部含めて現在の自分があると思うと、今では微笑ましい思い出です。
言葉や歴史だけではなく、ウリハッキョでは「朝鮮人であること」についても考える機会をたくさんもらえました。ある先生がおっしゃった「在日朝鮮人として生きることは不便だけど不幸ではない」という言葉を今だに覚えています。私がそれに強く同感できたのはウリハッキョのおかげです。社会的に差別を受けて生活が不便でも、私たちはお互い「同胞」と呼び合ってハッキョや繋がりを守りながら一緒に生きています。1年間の行事の中で、同胞たちの一体感が最高に達する運動会や学芸会の楽しさったら。
ウリハッキョに対する思い出は一人ひとり違います。でもウリハッキョを大切に思う気持ちはみんなに共通するものでしょう。「高校無償化」除外や補助金交付停止など、今まさに差別と排除の的になっている朝鮮学校の児童・生徒、保護者やソンセンニムたちのことを考えると心が痛みます。こんなときだからこそ自分たちがウリハッキョを愛するのはもちろん、もっと多くの人にウリハッキョとはどういう場所なのか、その大切さを知ってほしい、尊重してほしいと願ってやまないです。(理)
Unknown
7~8年前といえば、「拉致問題」ですでに朝鮮バッシングは絶賛展開中だった時期ですね。そんな状況で、よくウリハッキョに行こうと決心されました。(理)さんご自身ももちろんながら、あなたの思いを汲んでくださった保護者の方にも敬意を表したいと思います。
経験上、朝高からの編入生がウリマルを習得するのは困難が多いと当方は考えていますが、(理)さんはどうでしたか? 独自の学習法や、日本語の誘惑を断ち切るコツなどがありましたら、差し支えない範囲で教えていただけると、貴ブログ読者さんの参考として広く活かせるかと存じます(個人的にも興味があります)ので、よろしくお願い申し上げます。
Unknown
Unknown (Kim Shirly)さま
確かにいま考えると、その頃も情勢の動きが激しかったですね。正直言うと、当時はニュースも新聞も一切見ない子だったので、単純に周りの環境に疎かっただけです(笑)。うちの両親は色々な感情があったと思いますが…
私もなかなか苦労はしました。特に朝鮮語文の朗読などは、今も少し苦手です。私は日本語の誘惑はありませんでしたが、会話の面で「この発音(もしくはイントネーション)であってるのかな」という不安や恥ずかしさはありました。文字や文章の面では、部活の先輩との交換日記(その日の練習内容、反省、成果、感想などを書きます)が身になったと思います。できるだけ朝鮮語で書いて、間違っていたり分からなかった表現はその先輩が毎日赤ペンで添削してくれました。1年間そうやって見てくれたのはありがたいですね。あとは1日に20個ずつの単語の小テストと、日常生活との(言葉の)結びつけですね!実際に机を認識して「チェクサン」と言ってみたり、言葉とイメージを共有するというか。私は本当にいい環境で学べたと思います。周りのみんなに感謝です。
Unknown
お返事ありがとうございます。
そうですか、クラスメイトや先輩方のご協力がかなり大きかったようですね。周囲に良い環境があって何よりでした。
私個人の視点から「やはり」と思わされたのは、
>文字や文章の面では、部活の先輩との交換日記(その日の練習内容、反省、成果、感想などを書きます)が身になったと思います
実は私もウリハッキョに途中編入したのですが、私も(理)さんのような内容で交換日記をやったんです(相手は先生でしたけどね)。
「自分の腹の底」をそのままウリマルに移し替えて書き記し第三者に推敲してもらう、というのはウリマル習得にあたって非常に効く方法論だと、自分でやってみたこともありあらためて思います。ただし、信頼できる(ハラを割って話せる)相手が必要ではありますが。
(理)さんはその後朝大で4年間、今度は専攻としてウリマルを学んだのですから、今やかなりの使い手でしょう。これからその能力を活かして、月刊イオの誌面作りに大きく寄与されることを願ってやみません。
以下は蛇足。
ブログのコメント欄で別の読者とコメントをやり取りしなければならない時は、基本相手のHNだけ記しておけばOKですよ(私に対しての返信ならば「Kim Shirlyさま」)。
日刊イオにおける投稿者名のカッコとかタイトルの有無とかは、ブログサービス会社の提供する独自のフォーマットに依存しているだけなので(日刊イオなら「goo」です)。これからお仕事でいろんなブログをごらんになり、かつ情報のやり取りもされるでしょうから、老婆心までに。
長文失礼いたしました。
コリアンの方達が羨ましい
今から、十数年前か、二十数年前か、その位前になりますが、テレビで在日コリアンの方たちのウリハッキョでの運動会のことを放映していたのを見たことがあります。家族や同胞の方たち皆で、食事をしながら楽しそうに運動会に参加していました。日本人の社会では、考えられない結束力です。私はそのテレビを見て、「皆でお弁当を食べながら、和気あいあいとしている。楽しそうだなぁ」と本当に羨ましかったです。私は、今度もし生まれるとしたら、コリアンの方たちのところに生まれたいです。皆で楽しそうな、そして結束力があるコリアンの方達が、本当に羨ましいです。