奉奇ハルモニ
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琉球朝日放送で5月23日に放映された「Q+リポート 元慰安婦女性 戦後も消えなかった苦しみ」には、日本の植民地支配時に釜山から沖縄に連行された奉奇さんが紹介されている。
http://www.qab.co.jp/news/2013052343383.html
映像には、奉奇ハルモニを17年間支えた沖縄在住のキム・スソプさんが、生前のハルモニを伝える語り部として登場する。番組では沖縄でひっそりと暮らした様子を伝える数少ないだろう写真も紹介されており、最後にはさんの歌声が流れ、悲しみを誘う。
さんは、日本軍性奴隷という辛い過去の経験から、人間忌避症になっていたという。一人で住んでいたほったて小屋を、光が入らないよう穴をふさいでいた。
レポーターは「戦争がなければ…」と締めくくっていたが、これは「日本の植民地支配がなければ」と表現されるべきだろう。「日本軍慰安婦」の過去は、さんを生涯苦しめ続けた。
それまで、私が知るさんの写真は1977年4月23日付けの「朝鮮新報」に載った(写真上)この一枚だけだった。
35年前に書かれたこの記事は、さんの存在を報じたスクープ記事だった。「この世の地獄だった」との見出しには、さんの壮絶な体験が記されている。記事の一部を紹介したい。(原文は朝鮮語)
日帝が敗戦を目前にした1944年、近藤と呼ばれる一人の日本人が、騒がしい釜山の街を歩きながら女性たちを集めていた。…彼は「シンガポールに行けば金を稼げる」という甘言をふりまきながら、奉奇さんをむりやり船に乗せた。船に乗ってみるとさんと同じような女性50余人がいた。シンガポールに向かうという船は日本の門司港に到着した…(略)
門司港から沖縄に連行された50余人の女性たちは、そこで散り散りになった。ハルモニは、他の6人の女性たちと第32軍海上特攻隊が駐屯する渡嘉敷島に連れていかれた。
そこで初めて自分が「慰安婦」として連行されたことを知った彼女は唖然とした。
「その時、体から血の気が引いていくような衝撃を受けたことを今も覚えている。胸は張り裂けそうだったし、恐怖心に包まれ、体がぶるぶると震えた。大声をあげてこんなことがどこにあるのかと反抗したが…」(記事から)
さんは「あきこ」という日本名で働かされた。
1945年3月に米軍が渡嘉敷島に上陸した後は、一緒に連行された女性が虐殺された現場を目撃している。祖国が解放された後は捕虜となり、捕虜収容所でも性奴隷を強いられた。
取材した記者は、沖縄でひっそりと暮らすさんを見ながら、「国を奪われた亡国奴の悲しみを痛感した。このような悲劇は二度と起きてはならない」と締めくくっている。
1991年10月16日、77歳で亡くなったさんは、「遺骨は統一された祖国に埋めてほしい」と何度も話していたという。
生前により添えなかった分まで、私たちが奉奇ハルモニを胸に刻みつけなければ。(瑛)