東京第6夜会、大成功!
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7月28日、東京・千鳥町の東京朝鮮第6初級学校で夜会が行われ、例年の1.5倍になる1000人の同胞や地域の日本市民が参加してくれました。
隣に住むおばさんは、お孫さんを連れて出店の料理をたくさん買ってくれましたし、いつも最寄り駅から学校に向かう子どもたちを見守ってくれているサツマのおじさんは、ビールをたくさん買ってくれたうえに、「たのしい時間をありがとう」と手を握ってくれました。娘が通う保育園のママにもお礼を言うと、ご実家が東京朝鮮第9初級学校の近くだったそうで、いつも第9ハッキョの夜会に遊びにいってたとのこと。また、いつも息子に声をかけてくれる3軒隣のおばさんは、数日前に「校舎壊しちゃうの?」と声をかけてくれては、「先生方も本当に熱心ね」とほめてくれました。私はまだ大田に来て6年ですが、それよりずっと前から第6ハッキョはこの土地の人たちに守られてきたんだ~と感じられる「心温まる出会い」がたくさんありました。
夜会の数日前、近所のオンマが、「このご時勢に『朝鮮学校』と自然に言えるご近所さんがいるって、すごいと思わない? 新校舎建設を機に地域にハッキョを根付かせていきたいね」と話していましたが、今までも、そしてこれからも、地域の人たちとともに歩んでこそのハッキョだし、子どもたちを見守る応援隊を増やしていきたいと感じました。
今回は例年以上の人たちに来てもらおうということで、地域の同胞たちは、地元はもちろん、神奈川県にまで足を運び、夜会のチラシを配りました。実行委員会がチラシにクジをつけたのも、「一人でも多く」との思いが込められています(写真下は実行委員長の金昌洙さん)。
夜会のクライマックスを飾ったマンプンニョン。現役のアボジオモニや保護者OB、この地域のウリハッキョを卒業した10代、20代の青年たちが舞台に立ってくれました。
観客の皆さんは舞台から目を離さず、ジッと私たちを見守ってくれ、最後に大きな拍手を送ってくれました。
夜会の後、1000人を迎え入れるために奔走したオモニ会の申会長の目からはずっと涙がこぼれていました。「1世の映像、教え子たちの顔、ハッキョに来てくれた人たちを見てたら…」。感無量の思いに周りもジーン…。
いつもの1.5倍に及ぶ人たちは、どんな思いでハッキョに来てくれたのでしょうか。
新校舎建設の寄付を託していった方、卒業したハッキョを久しぶりに訪れた若い卒業生たち、この学校で教鞭をとった先生方、夜会に総動員だったオモニ、アボジたちに代わって子守りを引き受けてくれたユチバンの先生方や祖父母の方々、そして貧しい暮らしの中で旧校舎を建ててくれた先輩たち。。。小さな運動場を埋めた人々の姿をしっかりと心に刻みたいと思います。
東京都内には東京朝鮮第1、2、3、4、5、6、9ハッキョに東京中高、西東京に2つ、計10つのウリハッキョがあります。東京第7、8ハッキョが門を閉めた後は、東京第6ハッキョが西南地域の民族教育全般も担うことになりました。現在、広い地域にハッキョの通園・通学バスが走っています。
今年は4.24教育闘争65周年を迎えましたが、第6ハッキョも他地域と同様に弾圧を受けました。しかし、地域の同胞たちは、廃校となった東調布高等女子学校を買収し、1949年10月から「東京都立朝鮮人第6小学校」の看板を掲げ民族教育を続けました。55年3月、校名は東京朝鮮第6初級学校に改称され、60年から94年までは中級部も運営しました。
夜会では、第6ハッキョの草創期にアボジが教員をしていたというオルシンや、東京第7ハッキョのために人生を捧げてきたオモニ、第8ハッキョの懐かしい写真も流れました。映像を通じてこの地域の歴史を初めて「体感」できた気がします。
校舎の解体が始まった今、東京・西南地域の同胞たちは、校舎建設という大きな目標に向かって本格的に動きだしました。
暑い夏に応援に駆け付けてくれた皆さんの気持ちにこたえるためにも、必ず立派な校舎を建てたいと思います。(瑛)
特別支援学級は?
いつも「日刊イオ」を読んでいます。初級、中級、高級学校がありますが、特別支援学級は、あるのでしょうか?
私は福祉に関心を持っているので、在日コリアンの皆さん。現状はどうなのか教えて下さい。