朝鮮人虐殺を書き残した日本の市民たち
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毎日通う職場の玄関には、むくげの花が綺麗に咲いています。むくげを見ると、毎年訪れる関東大震災の日を思い出します。3日前に完成したイオの9月号では、40年の長きに渡って関東大震災の朝鮮人虐殺問題に取り組んでいる歴史家の山田昭次さん(83、埼玉県在住)と、朝鮮人が警察に拳銃で撃ち殺された荒川河川敷の傍に仲間たちと碑を建て、90年前の出来事を伝え続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の西崎雅夫さん(53、東京都在住)について書きました。
1923年9月1日、午前11時58分48秒に関東地方を突然襲ったマグニチュード7.9の激震は未曾有の災害をもたらしました。「大震災」の混乱の中、地震発生の9月1日の午後から「朝鮮人が放火した」「井戸に投薬を投げた」などの流言が飛び交い、関東一円で軍が、自警団を組織した一般民衆が、朝鮮人を捕え、虐殺しました。信じがたいことですが、当時は警察官が「朝鮮人を殺しても差し支えない」と言ったので、一般民衆の多くが竹やりや日本刀を持って朝鮮人を熱狂的に虐殺したのです。
3日には内務省警保局長名で「朝鮮人暴動」の打電が発せられます。日本の植民地時代に行われた大量虐殺(ジェノサイド)-。しかし、この大事件は日本が国を挙げて証拠を隠滅したため、殺された朝鮮人の数を知ることはいまだは不可能です。
このような話をブログで書くと、その真偽を疑うコメントが寄せられますが、今回の取材を通じて、朝鮮人虐殺を目撃した日本の民間人の多くがこの事実を文書で書き留めていることを知り、その良心に救われる思いがしました。
それは、冒頭に紹介した西崎雅夫さんがまとめられた「関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料」(計3冊)に記されています。冊子の中からその一部を紹介します。
「…横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重症を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮な感に打たれた。
食うものは全くなくなった。隣の人に頼まれて、若者ばかり数人連れで、平塚村戸越のとある米屋へ2俵の玄米をとりに行くことになった。途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何か見ると、朝鮮人が2人電柱に縛り付けられているのであった」(米田実男『歴史の真実・関東大震災と朝鮮人虐殺』1975年)
当時、四谷第五尋常小学校6年だった後藤光重さんの文章です。
「…八丈丸はいかりをあげてお台場沖へと逃げましたが、ここもあぶないというので品川沖に逃げました。…僕等は早く上陸したいとあせっていましたが、船員達に『今上陸しても鮮人騒ぎで歩けないからもう少し待て』と言われました。やがて我々は上陸し…その夜、またおそろしい光景をまのあたり見せられました。今考えても身が縮まるような心地がします。それは鮮人騒ぎで、3人まで日本刀やピストルで惨殺されるのを見せられたことでした。血刀をひっさげた男が『お前達もみな殺すのだぞ』と私たちの前へ来た時には、恐ろしさにふるえあがりました。その晩はねむれませんでした」(東京市四谷第五尋常小学校編『震災記念、児童の実感』より)
当時、早稲田大学の聴講生だった俳優で演出家の千田是也さんは、朝鮮人に間違われ、殺されそうになった体験を書いています。千田さんは自身が書いた『決定版・昭和史4』(1984年)で、「異常時の群集心理で、あるいは私も加害者になっていたのかもしれない、その自戒をこめてつまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである」と関東大震災の体験を自身の人生に重ねてあわせていました。
また映画監督の黒沢明さんは、井戸の外の塀に白墨で書かれた変な記号を指して、大人たちが、「それは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと言うのであきれ返った」話を書いています。その「記号」とは、黒沢さんが書いた落書きだったからです。
「…下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人達は恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向こう見ずな行動に出る…関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である」(黒沢明『蝦蠆の油-自伝のようなもの-』1984年)
この冊子は東京都の23区別に証言をまとめており、官憲が流した朝鮮人暴動の流言蜚語も区別に紹介されています。東京にお住まいの方は、ぜひこの冊子を手に取ってみてください。
東京都墨田区八広に建てられた朝鮮人虐殺追悼碑。加害者が日本の民衆だったことが記されている
それにしても、これはすべて私たちと同じ人間がやったことという重い事実をどう受け止めればいいのでしょうか。証言の一つひとつを読むと、90年前になぜ人々が根も葉もない流言を信じて、隣人を殺めてしまったのか、という「人殺し」の正体がゆらゆらと立ち上がってきます。
歴史を実体験することが難しい以上、残されたものから学ぶしかない-。多くの証言はそのことを教えてくれます。
※冊子については、http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/の連絡先までご連絡を。(瑛)