李漢宰選手のこと
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4月号は、Jリーグや海外のプロリーグで活躍する選手や指導者たちを紹介する特集を組みましたが、今季J3・FC町田ゼルビアでプレーすることになった李漢宰選手の取材は、感慨深いものがありました。というのも、13年前、李選手が広島朝鮮中高級学校の3年生だった頃に、彼を取材し、その活躍を楽しみにしていたからでした。
幼い頃から在日朝鮮蹴球団にあこがれ、朝鮮代表になる夢を抱いていた李選手。しかし、2000年1月に蹴球団が非常設化され、「蹴球団でプロに」の夢は断たれてしまいます。そこで広島朝高や蹴球団、同胞サッカー関係者が力を尽くし、サンフレッチェ入団を実現させるための本格的なアプローチを始めます。
李さんは2000年5月に行われたサンフレッチェのテスト試合で、ゴール30メートル前のフリーキックを鮮やかに決め、2回目のテスト試合でも得点。「広い視野、高いテクニックが評価され」(トムソン・サンフレッチェ広島監督:当時)、入団が決まりました。
朝高での3年間、日本の高校との年間100以上の対外試合をこなしてきた日々。「自分が何者か、何のためにサッカーをするのか。朝高はその出発点を教えてくれた」という彼の言葉を今も覚えています。
今や強豪となったサンフレッチェに9年在籍。しかし、李選手にとって、広島を離れ、コンサドーレ札幌に移った後の苦しみは、行き先の見えないトンネルの中を歩くように、辛く、長かったと察します。右ひざを痛め、1年半もの間サッカーができず、名古屋で黙々とトレーニングを積む日々。湧きあがった思いは、「サッカーがしたい」―それだけだったといいます。
この思いを貫き、広島時代の縁でFC岐阜に入団を遂げた李選手は、1年目は9試合、2年は32試合に出場するまでに復活を遂げました。3年目からはケガに苦しみ、今も痛みを抱えているものの、「朝高からストレートにJリーグに入った人間として、1年でも長く現役を続けたい。自分はまだやれているんだ、ということを若い選手に伝えたい」-。今回、李選手を貫く強い意志にも触れることができました。
32歳になり、プロ生活としてもベテランの域に。何よりうれしかったのは、彼が新天地の町田でチームのキャプテンに選ばれたことでした。
「プロになることより、続けることが難しい。自分の個性をだしつつ、監督が望むサッカーを理解し、自分に何が必要なのかを考えながら、サッカーをしてきた」とも。
彼が13年の間に培った「パイオニアとしての選手生活」を改めてじっくり聞いてみたい。できあがったイオを見ながら、そう思っています。(瑛)