矛盾と繊細に向き合う―映画「ぼくを葬(おく)る」を観て
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ふと、最近あまり映画を観ていないなぁと思い立ち、レンタルビデオショップで数本借りて観たので、なんとなく今回は映画の紹介。
「ぼくを葬(おく)る」(2005年/フランス/81分/監督・脚本:フランソワ・オゾン)
観ようと思ったきっかけは、ゴールデンウイークに下記のような映画祭が開催されることをレインボー・アクションのホームページで知り、いわゆるクィア映画を観ようと思い、この作品にたどり着きました。
第1回レインボー・アクション映像祭
監督本人がゲイであることから、これまで作品の中に多々ゲイを登場させてきたフランスの巨匠、フランソワ・オゾン監督は本作で、自身をモデルに、余命3ヵ月を宣告されたゲイが、自らの死をどう受け入れて余生を生きていくのかを描いたそうです。
以下あらすじ(ネタバレあり)。
パリで活躍する気鋭の人気ファッション・フォトグラファー、ロマンは、ある日撮影中に突然倒れてしまう。診断の結果は末期のガンで、余命は3ヵ月と宣告されます。
主人公は医師の勧める化学療法を拒み、家族にも恋人にも告げず、自身の人間関係を一つひとつ清算して、たった一人で死に向き合うことを選びます。唯一、祖母にだけ自分の苦しみを打ち明けて。
死期が刻一刻と迫る中、ひょんなことから不妊症に悩む夫婦に出会い、「代理父」になってくれないかと頼まれるロマン。一度は断るものの、最後には「父」となることを自ら希望し、さらには自身の一切の財産を生まれてくる子に譲ることを夫婦に約束します…。
(あらすじおわり)
これまでにクィア映画と称される作品は両手で数えるくらいしか観ていませんが、これは比較的分かり易い(と言い切ってしまうのは当事者の方たちに対し失礼になるかもしれませんが)作品だと思います。
死を宣告された主人公が両親や姉、恋人との対人関係を整理していく過程は、ゲイである主人公が、やり過ごしてきた生きがたさを見つめ直し、様々な破局を自身で招きながらも、自分自身に正直になることで研ぎ澄まされた自由を手にし、徐々に解放されていくように見えました。
息子のセクシュアルアイデンティティを無視して「普通」の生き方を暗に強要する母、ヒステリックな姉、ゲイである息子を畏怖する父。家族の誰も、主人公が感じてきた不和に気づいていません。主人公が死を共有する相手に祖母を選んだわけは、作中の主人公のセリフでも明らかであるように、死を身近に感じているもの同士であるからです。
「子」というのも、主人公の内面世界を垣間見る重要なファクターとして登場します。主人公が姉の子どもを拒絶するのは、子どもが、死を間近にした同性愛者である主人公と対極にある「生」を否応無しに見せつけられる嫉妬の対象であるからゆえでしょう。
だからこそ、子どもを遺し命をつなぐことを選んだ、主人公の最期の選択がとても尊く思えました。葛藤の末、最期に主人公は自身の生と性―死とともに、「他者」を受け入れようとしたのではないでしょうか。でもそこにジェンダー規範がマジョリティによる暴力として働いていないとは言い切れません。
セクシュアルマイノリティに限らず、マイノリティ当事者が描いた作品の中には、ぼんやりと生活しているだけでは得られない無数の気づきが散りばめられています。それは少数者の身を削った訴えであり、安易に消費してはいけない、と映画を通して改めて思いました。
日本に日本人だけでなく私たち在日朝鮮人や在日外国人がいるように、社会には様々なセクシュアリティの人たちがいます。言うまでもなくみな社会の構成員であり、その分だけ生き方や価値観があります。
厳然と存在するジェンダー規範の中で、無意識の中に内面化している既存の価値観を探すのは簡単ではありませんが、映画でもなんでも、いろんな方法で、様々なライフスタイルや価値観、人間関係のあり方に触れ、想像し、多くの矛盾と繊細に向き合う努力をすることは可能です。
連休中に前述の映画祭にも足を運ぼうと思っています。(淑)