「サンペン」誕生の歴史をたどる(上)
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イオ8月号の特集は「朝鮮学校百物語」。朝鮮学校にまつわるさまざまなお話を集めて紹介しようという企画です。今回のエントリでは、この8月号特集に関する取材の際に聞いたお話を。
朝鮮学校を象徴するものの一つに、通称「サンペン」として有名な朝鮮中・高級学校の徽章(バッジ)があります。元々は東京朝鮮中高級学校のバッジで、朝鮮学校の中級部、高級部に通った人や学生時代に朝鮮学校と関わりを持っていた人なら、「サンペン」と聞いて知らない人はおそらくいないほど有名なものです。
では、その「サンペン」はいつ、どのようにして生まれたのでしょうか―。「サンペン」の由来については、東京朝鮮中高級学校がまとめた同校の沿革史の中で明らかにされています。マークが誕生したのは1948年、デザインを考案したのは東京朝鮮中高級学校(当時は東京朝鮮中学校)の第1期生である朴文侠さん(当時16歳)と同校美術教員だった朴周烈さん(当時20歳)の2人。
その朴文侠さんが今もご存命だということで、先日、朴さんの自宅がある茨城県水戸市まで足を運び、話をうかがってきました。
朴さんいわく、46年10月創立の同校には「サンペン」の前に別のバッジが存在していました。形は四角で、中央にトラ、背景に黒と黄色の線が描かれたものだったとか。ただこのデザインは、見方によっては、トラが檻の中に閉じ込められているようにも受け取られるという声もあり、新しいデザインに変えるべきだという意見が持ち上がったそうです。そして、学校側は48年初め、全校生徒、教員を対象にバッジの新デザインを公募することに。
当時、多摩造形芸術専門学校(現在の多摩美術大学)の学生でもあった朴周烈さんが住んでいた板橋区常盤台の下宿には、新潟から出てきて東京朝鮮中学校に通っていた朴文侠さんも住んでいました。先生と生徒という関係でしたが、歳も近く下宿先も同じということで、2人は兄弟のように親しかったそうです。デザイン考案の件は、周烈さんから文侠さんに「君も一緒に考えてくれ」と相談があり、2人による共同作業が始まります―。
続きは次回に。(相)