気になっている言葉
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仕事がら、さまざまな分野の人間と会って話を聞く。
取材の際に相手が発したことばが後々もずっと頭の片隅に残り、折につけてそのことばを頭の中で反芻し、考えをあれこれとめぐらせる、ということが多々ある。もちろん、それがまとまった思考として結実するということはあまりなく、たいていは、考えがあっちに行ったりこっちに行ったりして、自分の中で消化しきれずに終わるのだが。
つい先日会ったある人がこんなことを言っていた。
「理解というものは、つねに常に誤解の総体にすぎない」。
村上春樹の小説の一節だという。印象に残ったので調べてみると、「スプートニクの恋人」の中の一節のようだ。
私はハルキストではない。自分の蔵書の中にある数少ない彼の作品の中に「スプートニクの恋人」は含まれていないので、図書館に足を運び、原典に当たってみた。
当該の一節が含まれている部分を以下に引用する。
たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。私たちがもうたっぷり知っていると思っていることの物事の裏には、私たちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。
理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。
ちなみに、くだんの人は上記の一節を引きながら次のような話をした。
世の中には、自分がわかっていると思い込んでいるが、わかりきれていないことなんてたくさんある。対人関係で言うと、自分が話したことの意味を相手が同じく受け取っているだろうと考えることがすでに誤解なんだ。メディアが発したメッセージを私たちが受け取る場合もそう。人間は多様で、よくわからないもの。だから、あるがままを受け止めるしかない。
うん、なるほど。
ただ、村上作品の一節を引きながら語った彼の言葉がなぜ印象に残ったのか、自分でもうまく説明できない。締切原稿のことで頭がいっぱいだから、というのもあるかもしれない。
例のごとく、話にオチはない。ごめんなさい。(相)