スクールセクハラという犯罪
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「スクールセクハラ」という言葉をご存知だろうか。1990年代から使われ始めた言葉で、「学校で起きる性被害」のことだ。文部科学省の調査によると、2013年度にわいせつ行為で処分を受けた公立小中高校の教員数は205人。これは1977年の調査開始以降、最多となる数字で、勤務校の児童・生徒・卒業生が行為の対象というケースはそのうちの約半数にあたる47.4%にのぼる。しかし、このように処分にまでいたった事例は氷山の一角に過ぎない。処分されなかったケースや発覚すらされなかったものも含めると、実際はこの数倍あるともいわれている。
そんな、教師による生徒へのセクハラの実態を丹念に取材したルポルタージュが「スクールセクハラ なぜ教師のわいせつ犯罪は繰り返されるのか」(池谷孝司著、幻冬舎)だ。昨年10月に出版され、多方面で話題となった。購入後、しばらく積読状態になっていた本書を最近になってやっと手に取った。
以下、読後の感想を書きたい。
衝撃的な内容だった。「カラオケに行こう」という教師の誘い文句でホテルに連れ込まれ強引に関係を結ばされた女子生徒。小学生の教え子との間に恋愛関係があると思い込み、ホテルでわいせつ行為をして逮捕された教師。複数の女生徒を個室に呼び出し、服を脱ぐよう迫った部活の顧問―。10年以上にわたってこの問題を追ってきた著者は被害者のみならず加害者にも取材を敢行し、教え子たちに対する性犯罪に手を染めるかれらの心理を抉り出す。本書に記されたどのケースも読んでいてうんざりするようなものばかりで、不快感と嫌悪感しか催さなかった。
本書のすごいところは、スクールセクハラの実態の暴露のみならず、その構造的問題点を浮き彫りにしたことだろう。学校という神聖な場所でなぜそのようなことが起こるのか―。ひとたびこの手の事件が明るみに出ると、私たちはその原因を教師本人の資質に帰する傾向があるが、著者は「学校」という空間そのものに潜む問題を鋭く指摘する。スクールセクハラとは「一部の不心得者の行為」というより、教師が指導の名の下に絶大な力を持つ学校だからこそ起きる「権力犯罪」なのだ、と。学校や教育行政の保身や事なかれ主義による隠蔽体質が問題の解決を妨げ、さらなる事件を生む構造があることも指摘している。
本書では、被害者はあくまで「先生」と「生徒」という関係で加害者と接する一方、加害者は「男と女の関係」を信じて疑わないという構図がたびたび登場する。両者のこの認識のズレはなぜ生じるのか。ここに、教師だからこそ向けられる生徒からの親愛の情や信頼、服従を「自分自身」に向けられたと思い込んでしまう、自らの持つ権力に無自覚な教師の存在が浮かび上がる。自覚的にしろ無自覚にしろ権力を背景にした行為ということで、職場でのセクハラやパワハラ事案とも共通するものだろう。
この問題を理解するうえで筆者が提示するキーワードが「支配」だ。相手を自分の思い通りにコントロールしたい、権力を使って弱いものへ暴力を振るう。スクールセクハラは体罰と根が同じであり、ストーカーやDVもしかり。生徒の心をつかみ、信頼を寄せられ、学校の外でも生徒の力になる、というのが世間一般が考える「いい先生」のイメージだが、かえってその距離の近さが、自らが考える理想の型に生徒をはめようという教師の欲望がスクールセクハラを引き起こすきっかけにもなりうると著者は警鐘を鳴らす。
スクールセクハラのやっかいなところは、他の性暴力と同様に、告発したり他人に相談しにくいということ。被害者が自らの被害を口にするのには多大な苦痛がともなう。告発したからといって適切な対応がなされる保証はない。相手からの報復を恐れ、周囲の目を気にし、「家族に迷惑をかけたくない」と苦悩し、一人で抱え込んでしまうというのは性犯罪の被害者に広く共通する傾向だろう。児童・生徒の場合はなおさらで、しかも相手は教師。両者の「主従関係」、学校という閉鎖的な空間も相まって被害者は沈黙を強いられる。勇気を出して告発しても、2次被害に苦しむこともしばしば。著者はこのようなスクールセクハラをめぐる構造的問題を丹念な取材で明るみに出していく。
本書からは、再発防止や被害者たちの心を癒すことに加えて、教師の持つ権力を考え直すことで日本の教育全体を見直したいという、筆者自身の問題意識も垣間見られる。これぞジャーナリストの仕事、と思わせるような出色のルポだ。
本書を読むと、スクールセクハラは特定の学校や教師個人の問題ではないということがよくわかる。職場におけるセクハラにも通じる問題で、自分にとっても決して人ごとではない。子を持つ親や教育に携わる人々のみならず、この社会に住む多くの人々の知見に資するような内容を含んだ良書だと思う。一読をすすめたい。(相)