なぜごみは生まれるのか
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「住めば都」という言葉がある。どんな場所でも、住み慣れるとそこが居心地よく思えてくるという意味だが、私が勤めるイオ編集部の入る文京区白山のビルにもその表現が当てはまる。
新宿区築土八幡にあった旧社屋からこの場所に移ってきたのが2005年のこと。それから約10年。1975年生まれの私は、某新聞の平壌特派記者として現地に滞在した1年半あまりを除いて、30代の仕事のキャリアのほぼ全期間をここに通いながら過ごしたことになる。
そんな慣れ親しんだ街や仕事場ともあとわずかでお別れだ。事務所移転の日が間近に迫る中で、幾多の思い出がよみがえってくる。
飯田橋や神楽坂の喧騒や華やかさに囲まれていたせいか、移転当初はさびしい場所だと思っていた。しかし、やはり「住めば都」なのだ(住んではいないが)。仕事場の目の前を通る幹線道路の白山通りや旧白山通りは交通量が多く、周辺には東洋大学のキャンパスや高校をはじめ教育機関がいくつもあるので登下校時間帯は若者でにぎわうが、脇の細い路地に入れば閑静な住宅街が広がる。歴史のある街で寺社も多く、小石川植物園も近い。そんな静と動のコントラストが絶妙だった。飲食店も渋めのところが多い。仕事場は地下鉄駅から近く、都心やJR主要路線へのアクセスも悪くない。いいことも悪いことも、楽しかったことも悲しかったことも、記憶に残る出会いや別れも挙げればきりがないが、やめておこう。人間とは不思議なもので、折に触れて古巣を懐かしんだりするが、やがて思い出すことも少なくなり、置かれた環境に適応していくのだ(以前の移転時がそうだったように)。
移転が差し迫った現在、業務の合間を縫って引越しの準備を進めている。事務所の引越しは家のそれとは規模が違って、作業も膨大だ。そして、出てくる廃棄物の量も。
職場にあるものは、①日常的に、あるいはそれに近い頻度で使っており、今後もそうなるであろうもの(要するに、業務上必要なもの)、②普段使う使わないは別として無条件に保管しておかなくてはならないもの、そして③「①、②以外の理由で何となく残してあるもの」の3つに分類できる(と思う)。厳密に言うと、④初めから明らかに不要で今すぐ廃棄すべきもの(ゴミ)もあるが、これは普段の掃除の過程で処分していることが多いので量的には大したことはない。
この3つのうち、やっかいなのが③だ。私個人の所有物でいうと、これが一番多いかもしれない。書籍や冊子、紙の資料といった各種印刷物、CD、手帳類、事務用品などだ。往々にして「まだ充分使用に耐えうるので、捨てるのはもったいない」「普段使っていないが、いつか使う機会があるかもしれない」「万が一のためにとりあえずとっておこう」などの理由で処分することをためらってしまう。ここに「思い出の品」という要素が加わると、さらにややこしくなる。
このような形態の所有が増えるほど、持ち物がどんどん多くなっていく気がする。当たり前だが、ごみは初めからごみではなく、廃棄を決めた瞬間からごみとなる。それまでは、いくら他人からごみ同然に思われていようが、当人にとってはそうではない。ものを選別してごみを捨てるという行為は単に不要なものを機械的に処分することにとどまらない、複雑な人間的営為であるとは言えまいか。当然ながら、移転先のスペースには限りがあるので、③をできるだけ廃棄して身軽にしなくてはならないのだが、選別に悩む。
引越しにともなう所持品整理のメリットとしては、増え続けるものを強制的にでも減らすことができる、なくしたと思っていたものが出てくることがある、などを挙げられよう。今回も③に該当するものをだいぶ処分できたし、以前から行方不明で探していた本をロッカーの奥から見つけ出すことができた。(相)