名前と価値観
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先日、仕事でお会いした同胞と食事に行ってきた。その方は50歳を過ぎてから同胞のコミュニティに出会って、いまとても嬉しいのだと話していた。
イオで仕事をしていて実感するのは、本当にさまざまな背景を持った同胞がいるのだということ。至極あたり前のことなのだが、中学まで日本の学校に通った自分にとっては、高校から知ったウリハッキョやそこからつながる人間関係がそのまま同胞社会のすべてだった。
私は日本の学校に本名の日本語読みで通っていたが(黄=こう)、周りから浮いたり差別を受けたということはなかったように思う(アボジの教え「やられたらやり返せ」を体現していたのもあるかもしれない…)。
しかし、たくさんの葛藤を経て本名を名乗る人や、そもそも自身のルーツを知らずに育って、本名と言われても違和感の方が大きい人もいる。ダブルも多い。そういう人たちの話を聞くと、ウリハッキョに通った人とは違うアイデンティティの見つけ方をしていて、すごいなぁと考えさせられる。色んな背景を聞けば聞くほど、自分のそれまでの価値観がとても狭かったことを思い知らされた。
イオ2月号の「暮らしといま」では、名前をテーマに取材をした。上に書いたように、自らアイデンティティを獲得した人、逆にあたり前すぎて名前への意識がなかった人、他にもビジネスの面でだけ通名を使う人など4人の同胞に話を聞き、まとめている。
名前の選択はその人の価値観と密接につながっている。2月号の「暮らしといま」、ぜひ読んでいただきたい。(理)