写真をじっと見つめると
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日本各地にある朝鮮学校の歴史を、当時を体験した同胞たちの証言や資料から掘り起こす連載「朝鮮学校百物語」。今年の8月号からは“中等教育のはじまり”をテーマに、東京、近畿、九州を取材してきた。11月号では、愛知でのはじまりを紹介する。
今回は、愛知朝高の第1期、3期卒業生のインタビューとあわせて愛知中高創立60周年を記念して作られた冊子(写真上)をもとに記事を執筆する。書き始めるにあたって冊子の表紙をなんとはなしに眺めていると、不意に写っている人の姿がものすごくリアリティを持って伝わってきた。
勝気な表情の子、伏し目がちの子、優しそうな子、利発そうな子、厳格そうな先生、豪快そうな先生…。実際に会ったことはないのに、どんな風に話して、どんな風に笑って、どういう学校生活を送ったのかが目の前に浮かんでくるような気がした。
例えば前列左端の先生、この人はきっと理数系だろう。几帳面だけど照れ屋という感じがする。対して、前列の左から4番目の先生は文系っぽい。しかも、ある一人の作家に強く傾倒していそうな、そんな雰囲気も漂っている。あとこの時代にも、女子生徒が男子生徒に向かって「시끄럽다! 너 어지간히 하라!(うるさい! アンタいい加減にしなさいよ!)」と言うような場面があったかもしれない。
しかし、冊子の左下には小さく“写真は第1回卒業生(1950年)”と書かれている。「学校閉鎖令」の翌年だ。証言によるとこの頃、教員や同胞たちが次々と逮捕されていく中、子どもたちも警察署や県庁に出向いて抗議をしたり、釈放を求めるビラ配りをしたという。写真に写る人たちも、ただ楽しいだけの毎日ではなかっただろう。気弱そうなこの子も、芯のありそうなこの子も、見つめると目を合わせてくる一人ひとりがどのように怒り、声を上げ、走っていったのかまで見えてきそうだった。
このように表紙に大きく写真が使われて、一人ひとりの顔が鮮明に見えるからだろう。これまではこのような写真があっても単なる集合写真としてしか見ていなかったことに気づいた。歴史もそれと似ていて、長い時間が経つと単なる過去の出来事としてしか見えず、自分とは遠いことのように感じてしまうことがある。特に私は歴史に苦手意識があるのでなおさらだと思う。だがこの写真のように少しズームアップして眺めてみると、歴史は無数の人生の集合で成り立っている物語なのだとわかる。そう考えると途端に面白味が増してくる。
誰の人生のどの部分を参照するかによっても、歴史の見方は少しずつ変わってくるのだろう。同じ時代の話を聞いても、その時に教員だった人と商工人だった人と女性と子どもとでは、語られることは大きく違ってくるはずだ。
歴史に完成はない。ただただ奥が深い。できる限りたくさんの物語を集めることが、その歴史により多くの意義を与えられるのかな、という風にも感じた。(理)