スリランカの姿、朝鮮の姿…
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この前の日曜日、立教大学・異文化コミュニケーション学部の学生らが主催するシンポジウムに行ってきた。会場は同校池袋キャンパスで、シンポジウムの題名は「70年の時を経て出会った尹東柱と立教生」。朝鮮の詩人・尹東柱の没後70年に際して韓国で製作された映画「동주(東柱)」上映のほか、尹東柱の詩朗読、ミニコンサート、映画の脚本家と俳優、評論家らによる対談などが行われた。
上映会の前に、学生らによる活動報告があった。尹東柱とは関連しないが、異文化コミュニケーション学部で学ぶ学生たちが普段どのような問題意識で、どんな研究・経験をしているのかという内容を知ることができた。
発表テーマは、①「新大久保とは」、②「アフリカ、ケニアにおける女性・女児のエンパワメント」、③「日本、ファストファッションの弊害とフェアトレードの現場」、④「南アジア、スリランカにおける紛争後社会の平和構築と民族和解」というもの。それぞれ、学生が主体となって現地に足を運び、人々の話を聞いて見えてきたもの、感じたことを報告した。
私は特に、④を聞きながらなるほど、と思うことが多かった。発表者ははじめに、ある旅行社のHPに掲載されているスリランカの情報を引用。豊かな自然、透き通ったビーチ、たくさんの動物たちや紅茶、心身ともにリラックスできるアーユルヴェーダ療法など、観光地としての魅力がたくさん書かれている。
「しかし私は、これがスリランカの姿だとは思っていません」。発表者はそう問題提起しながら、国内で25年以上にわたって続いていた内戦の状況を話した。最終的に市民たちが多く暮らす地域にも無差別に攻撃が行われ、内戦は悲惨な形で終結されたという。
「冒頭に見た、旅行サイトが書くような一面的なスリランカの姿、その情報だけを見ると、実際に現地に行ったとしても見られるものはすごく偏ってしまう。色々な情報を知ることは難しいが、能動的に知ろうとすること、ものごとを提示されるままに受け取らないことが大事だと思います」。
その言葉にハッとした。私はもともとスリランカについて何も知らなかったから、発表者が言うように、もしスリランカについて知る機会があっても表面的に触れることのできる情報しか見ることができなかっただろう。これは日本に暮らす多くの人の、「北朝鮮」や朝鮮学校に対する姿勢と同じかもしれない。
メディアやネットで簡単に接することのできる情報ではなく、表面に出てきにくい情報に意識的にアクセスできる力を養いたいと思った。(理)