「枝川裁判」から10年
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母校・東京朝鮮第2初級学校(江東区枝川)の校地をめぐる裁判に和解という形で勝利し10年を迎えます。
裁判が始まった2004年、私は同校の初級部6年生、裁判が終わった時はすでに卒業していました。
第2ハッキョといえば「枝川裁判」といってもいいほど、この裁判は各地で知られていますが、実は、私自身は最近までこの裁判についてよく分からないまま過ごしてきました。
裁判が起きた時、「大変なことが起きている」という認識はありましたが、「学校がなくなる」という不安を感じたことはありませんでした。
悩みといえば、クラスの友だち関係だったり、部活のことだったり。毎日、目の前のことに必死でした。
先日、当時お世話になった先生に話を聞く機会がありました。
その頃の先生たちは、裁判で学校や地域が揺れる中、学んでいる子どもたちには不安を感じさせてはいけないと心がけていたそうです。
私たちの知らないところで、少人数体制だった先生たちがどれだけ奔走されていたのかを初めて知りました。
街頭に立ち署名集め、裁判を傍聴しに行き、常に裏方として奮闘されていたオモニたちの話も聞きました。
「オモニたちはみんな強気で、裁判に負ける気がしなかった」という言葉が印象的で、私が裁判に不安を感じなかったのも、こうした方たちの「子どもをなんとしてでも守る」という信念と活気があったからだと知りました。
私が、かつて母校で起きた裁判について今になって深く考えるようになったのは、今各地で闘っている高校無償化裁判がきっかけでもあります。
この問題で朝鮮学校を支援してくださる日本の方たちの姿にはいつも胸が熱くなりますが、その中にいつも、枝川裁判を一緒に闘ってくれた「枝川朝鮮学校支援都民基金」の方たちの姿があります。
枝川裁判を担当された弁護士の方が、高校無償化裁判で先頭で闘われています。
こうしたようすを目にする度に、枝川裁判を改めて思い返してみます。
(あの時、自分もこうして守られたのかな…)
幼い頃はよく分かりませんでしたが、少しずつ当時を知っていく中で、自分がたくさん方の思いと助けの中で学生時代を過ごしてきたと感じるようになりました。
今の自分が、子どもたちのために何ができるのかということも無意識に考えるようになりました。
3月26日には、同校で「枝川裁判勝利10周年! 記念式典&大宴会」が行われます。
感謝の気持ちを忘れず、またこれからの朝鮮学校のために自分ができることを考えながら、楽しい時間を過ごしたいと思います。(S)