「つながりました」
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最近、「つながった」という感覚をおぼえる時がある。
ひとつは、李容洙ハルモニが広島初中高を訪問したという記事を読んだとき。
※5/19付日刊イオ(http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/67f89f8bfd38d2cb75983293b653c062)
<学生用のチョゴリを着て過ごす女子生徒たちを見ながら、「かわいい。昔着ていた頃を思い出す」と懐かしむ李さん。>
この部分を読んで、(ああ、この瞬間ハルモニと生徒たちはつながったんだろうな)と思った。単純に出会ったという意味ではない。「昔(チョゴリを)着ていた頃」のハルモニと、今チョゴリを着て過ごしている生徒たちがつながった、と感じた。月並みな表現だが、時空を超えて、という感じだろうか。故郷の村で過ごす幼い頃のハルモニと現代の子どもたちが並んだ様子が頭に浮かんだ(映画「鬼郷」の印象が強いかもしれない)。
また、父親世代の同胞の方や朝鮮大学校時代に被らなかった後輩と話をしても似たような感覚になる。「〇歳の時、自分はなにをしていた」といった話を聞くと、ふと不思議になるのだ。その頃、自分は全く別のところで生活していて、お互いに全く知りえなかったのに今こうして答え合わせのように話をしている。当たり前のことではあるが、そういう人生の交わりというようなものを意識すると面白くなってくる。
なぜ最近になってこういう感覚を意識するようになったかはよく分からない。ただ、ここからまた何か新しい企画のヒントが生まれたらいいなと思っている。
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明後日から、数ヵ月間イオ編集部を離れることになった。この過程でも、上に書いた「つながり」とは違う種類のつながりを実感する瞬間がたくさんあるのだろうと期待が膨らむ。それを自分なりの形で、またイオに帰ってきた時に誌面で発信していくことができたら嬉しい。(理)