公園で聞かれたこと
広告
(相)さん同様、「朝鮮学校の子どもたちに学ぶ権利を! 全国集会」に参加した。懐かしい知人は、雨のなか、小学生の娘を連れてきていて感心したのだが、娘さんは母親と参加した今日の光景をしっかり刻むのだろう。
集会の帰り、渋谷の若者がデモを写メしている様子が目に飛び込んできた。デモ隊の列が長いので、信号がしばらく止まる。文句の声もチラホラ。「差別反対」とシュプレヒコールを叫んだ私だったが、この中のどれくらいの人が朝鮮学校を知っているのだろうか。知らない人に「差別反対」の声がどれだけ届くのだろうか、と逡巡しながら、帰路に着いた。
この春、日本の保育園から朝鮮の小学校に進学した次男は、やっと新しい環境になれてきて、最近では、学芸会の練習を楽しんでいる。天気をあてるアオガエル役をするそうだ。カエルの鳴き声も、日本語では「ケロケロ」だが、朝鮮語は「ケグルケグル」。民族によって、聞こえ方、伝え方が違うことをおもしろがってくれば、と感じる。セリフを練習している時間は、無償化裁判の現場や、東京判決の敗訴の日に感じた暗澹たる気持ちを忘れさせてくれる平穏なひとときだ。集会で、ある朝高生の女生徒が、自分のありのままの姿を見てほしいと語っていたが、私たちは誰もが持つ平凡な毎日を守りたいだけ。
その次男が、ある日、公園で遊んでいると、「自分は朝鮮人?」と、聞いてきた。「そうだよ」と伝えてしばらくして、「朝鮮人って何か悪いことをした?」ときく。公園で一緒に遊んだ友だちに何か言われた訳でもない。おそらく民族学校に通うことで、自分は日本人ではないことを知り、周りと違うことに気づいているのだ。質問は、「違い」が何かを知りたかっただろう。発言にドキッとしたのは、母親の私だけだ。
冒頭の集会では、数十メートル先でヘイトスピーチが延々と繰り返されていた。その攻撃性たるやひどいものだった。カウンターの人たちが、雨のなか、生徒たちを守ってくれたことが、ただただありがたかった。しかし、日本で生まれ育った在日の子どもたちは、いつかこの現実を知ることになる。それでも、だからこそ、今は、日本の子どもたちと分け隔てなく自由に遊ぶ、そんな少年期を過ごしてほしい。
少人数の学校なので、次男が近所で遊べるクラスメートはいない。最近、保育園のお母さんのお誘いで、地元のサッカーチームで練習をはじめた。練習は毎週、ボランティアの人たちが担当してくれる。練習場所は固定されておらず、近隣の公立小学校を回るのも楽しみのひとつ。日本の友だちとの時間も新鮮なようで、これからが楽しみだ。(瑛)