難民たちの言葉①
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少し前に日刊イオで、東京入管に収容されているメルバンさんのことについて書きました。幼い頃に渡日して以降ずっと日本で育ったクルド人のメルバンさんという女性が、なんの理由もなしにとつぜん東京入管に収容されてしまったという事件です。
(日刊イオ2月10日付「メルバンさんを助けたい」→http://blog.goo.ne.jp/gekkan-io/e/eb20dd64820cb7a78e93a893d5be65b6)
メルバンさんは収容所から出るために仮放免のための書類を準備し、長らく審査待ちをしていました。しかし先々週の金曜日にそれが却下されたとのことで、かのじょの友人である織田朝日さんと一緒に面会に行ってきました(上の写真は、織田さんが所属しているSYIー収容者友人有志一同という団体が作成した資料を引用)。
前回に続き2度目の東京入管。今回はメルバンさんだけでなく他の友人たち(収容者)とも面会を予定していたそうで、そこに同席させてもらうことに。
2月21日、午前10時。織田さんと一緒に現れたのは雑誌『DAYS JAPAN』の記者さん。かれもネットを通してこの問題を知り、自身が所属する媒体で発信するために取材をしているとのことでした。
職員に呼ばれて面会室へ。前回とは違う部屋でした。座ってすぐに、ガラスに大きく刻まれた英語の文字が目に入りました。こちら側からナイフかなにかで刻まれたもののようです。「名前かな?」と織田さん。「壁にも黒いマジックでなぐり書きとかされていますよ。ペンキで何度も上塗りしているけど」。書いたのは収容者の家族でしょうか。友人か、恋人でしょうか。部屋全体に怒りが充満しているようでした。
「ヨーロッパは(難民が入る施設でも)外出できますからね。携帯電話も持てる。“保護する”という立場だから」。日本を基準で考えると、信じられない差があります。
【一人目:メルバンさん】
少し経ってメルバンさんがやってきました。前に見た時よりも明らかにやつれて、泣きはらした目をしていました。座っての第一声は「仮放免、ダメでした」。決まったことはとりあえず仕方がないとでもいうように、明るい声を出そうとしていて胸が痛みました。
「私より状況わるい人もっといるんで。そこまで悪いわけじゃないでしょ、と自分で(励まして)。アフリカの女の子で、1年以上ここから出さなかったくせに乳がんだって知ったら仮放免が出た子がいるよ。死ぬという診断書があればここから出すの?」
「昨日、夫に電話で仮放免だめになったって聞いた。職員に『なにがしたいんですか? 頭おかしくさせたいんですか?』と聞いたら『国があなたを認めないから』と言われた。他の人にも『そんなに甘いと思ってたの?』って言われたから『ご飯食べないデモするよ』と言って、まだ食べてない」
面会の前に織田さんは「(話を聞くのは)本当にしんどいですよ。いつも帰る頃には頭がガンガンする」と言っていましたが、怒り、もどかしさ、やるせなさ、悔しさといった様々な思いで頭がぐちゃぐちゃになりそうでした。「協力してくれて、気持ちはじゅうぶん私に伝わってるんで、元気出たんでありがとうございます」。メルバンさんの寂しい笑顔を見て、なんの言葉も返せませんでした。書類を準備して、もう一度、仮放免の申請をするそうです。
メルバンさんが退室したあとしばらく沈黙していると、他の部屋から男性の激しい泣き声が聞こえてきました。どれだけの人が苦しめられているんだろう。織田さんは先ほどのアフリカ人女性が気になるとのことで、午後に改めて申請してみようと言っていました。
【二人目:Bさん】
次に面会室に現れたのはクルド人の男性、Bさん。かれは日本人女性と結婚して8ヵ月で収容され、2月で1年になったそうです。難民申請をしていたが認められず、収容されました。
ここで新しく知ったのは、難民申請をするとまず入管の審査員によるインタビューがあり、そこで許可が下りなかった場合、港区・お台場にある法務省の建物でさらにインタビューを受けるということ。しかし、審査員は寝ていたり、うつむいていたり、明らかに気合いのない態度でそこに座っているといいます。
Bさんはお台場でインタビューを受けましたが許可が下りず、その直後に収容を通告されました。通常は、ここで再び申請をしていいことになっています。にも関わらず、Bさんと妻の声は聞き入れてもらえませんでした。東京入管に呼ばれ収容を言い渡されたBさんは、すぐ妻に電話しようとしました。しかし職員が「不審な動き」をしたと捉えて、数人がかりでBさんを床に叩きつけ制圧したそうです。その時に顔に大きなアザができ、妻が面会時にショックを受けたそうです。織田さんも見たらしく、あれはひどいよ、と憤っていました。
ちょうどその時、面会室の向こう側の通路を一人の職員が通りました。とっさに織田さんが「Iくん!」と声をかけてびっくり。以前、茨城県にある牛久入管にいた職員だそうです。
「なんか収容者と事件があってこっちに移ってきたらしいです。収容されてたのはフィリピン人なんだけど、じゃれている時にたまたまケガをさせられてしまって、入管側が裁判を起こしたんです。でもそれもひどい話で、Iくんはそのフィリピン人ともともと仲がよかったのに、裁判では『向こうは友達だと思っていたけど自分は迷惑だった』と言ったんです。上に言わされたのかもしれないけど。フィリピン人はショック受けてたよ」
その話自体にも腹が立ちましたが、Bさんはもっと怒っていました。「こっちがケガさせたらすぐ裁判なのに、こっちがケガさせられるとなにもない。トルコにいたらいじめられる、徴用される。トルコの問題分かっているのになんで? 自分はただここに入れてほしくないだけ。毎日、頭痛がひどい。血圧を測ったら170もあった。熱も上がっていつもしんどい」。またため息が出ました。
ここで午前の面会時間が終わり、お昼ご飯を食べることにしました。2人目でこの疲労感(あと6人分も続けて書いていいでしょうか)…。
東京入管内にあるコンビニで軽食を買って面会申請スペースに戻ると、赤ちゃんをあやしている若い男性が。「お母さんが入ってるの?」と織田さんが聞くと、そうだと返事がありました。フィリピン人の親子でした。
午後の面会時間になったので、面会室が並ぶ7階へ戻ります。部屋の割り振りを待っていると、職員の一人が先ほどのフィリピン人親子に話しかけているのが見えました。
「お父さんそっくりですね~!」と父親に笑みを向ける女性職員。(母親を収容する側にいながらよくそんなことが言えるな!)とカッとして織田さんに伝えると、「そんなつもりがないとしても疑問に思わないとダメですよね。それ言っちゃダメでしょ」と静かに同意してくれて、少しクールダウンできました。
【三人目:Gさん】
次は、クルド人男性のGさんです。かれも日本人女性と結婚しています。今年で8年。収容は3度目だといいます。
「ビザがないだけ。でも難民申請はしてる。何度も入管に行って、いろんな階で言ったのに。1回アルバイトして収容された。でも泥棒もしてない、人だましてない、殺してない。日本のやり方100%悪い。保険もない。わたし死んじゃって関係ない? 一匹の犬、一匹の猫も『かわいい』って言うのに、(自分を指して)人間? 関係ない。わたし『ガイジン』、悪い人だって見られる。わたし人間だよ」
確かに、仕事をする資格がない外国人が働くと不法就労になります。しかし前回も書いたように、日本は1981年に難民を受け入れる国際条約に加入しています。難民は保護を期待して日本に来ています。日本国内で、こんな差別的な処遇が横行しているとは思ってもみなかったはずです。
私たちが想像もできないような激しい弾圧をすり抜けて命からがら来た人もいるのでしょう。難民は財産も少なく、働かなければ生活が立ち行かないと少し考えたら分かるはず。日本は、どうして在日外国人を支援する工夫や枠組みを作らず、排除・管理する方向に進むのでしょうか。
頭に腫瘍があるGさんは、本来なら今すぐにでも手術をしなければいけません。また、適切な薬を飲まないといけないのにそれすら許されていません。
「一番安い、一番悪い薬。全然治ってない。変わらない。ずっと気持ち悪い、元気ない。夜は寝れない。暗くなっちゃうと本も読めないから、自分で考える、考える、考える…」。重大な病気を抱えながら、信頼できる人と離され、劣悪な環境の中で過ごさなければならない不安感はどれだけのものでしょうか。話しながらどんどん目が潤んでいき、しまいには泣き出してしまいました。いま向かい合って話しているのに、なにもできない無力感。面会の終了時間が来て、Gさんは肩を落とし「ごめんね、ありがとうございます」と言って部屋を出て行きました。くしくも、2日後はGさんの誕生日。56歳になるといいます。
【四人目:Sさん】
クルド人男性のSさんは日本に来て5年。トルコでは政府による少数民族クルド人への弾圧に対抗する活動をしていたため、国に帰ると捕まる可能性が非常に高いのだといいます。結婚しており、子どもは日本の公立学校に通っています。
「10月31日に収容された。なにもやってない。全部の問題ない。トルコに帰ったら危ないしビザが出てもいいのにずっとダメ。なんで? 知らない。『なんで?』全部の話はこれ。なんで捕まえる? トルコに問題あるって分かってるのに」
そして、「入管は………」と言ったきり言葉が続かず、顔にはただ落胆の色が浮かんでいました。
【五人目:Jさん】
冒頭でメルバンさんが話していた「アフリカの女の子」は、カメルーン出身のJさんでした。日本に来たのは2004年7月、27歳の時。収容されたのは2度目です。難民申請をし、お台場でのインタビューで却下されたあとに収容されたのが最初。次が1年半ほど前、引っ越しをする際に「転出届」を出すのが遅れたことで収容されたそうです。
「前に難民の弁護士から聞いたことがあって、確かに転出届を出さないと収容されるケースがあった。でもその人も、そういう理由で収容される人を見て初めて、それでつかまるんだと知ったそうです。なにをしたら収容されるのか、ビザがない人のルールは明確に定められているものがなくて分からない」と織田さんが解説してくれました。
在日外国人に日本語が不自由な人が多いのは当たり前。果たして日本で暮らすための親切なガイダンスが外国人たちの生活の周りで整えられているのでしょうか。「知らなかった人が悪い」というには、政府や行政は無責任すぎると感じました。しかもとつぜん収容するというような、日常生活をすべて奪う権利なんてないはずです。
「で、Jさんは仮放免が出たって聞いたんですけど」、織田さんが少しずつ話を聞き始めます。
「1年半前くらいにつかまって、ずっと胸が痛いって言ってたのに、病院に連れて行ってくれなかった。2月6日に初めて外の病院に行った。マンモグラフしたら乳がんだった。明日か明後日、お兄さんが迎えにくる」
Jさんは、持参した小さめのノートをパラパラとめくりながら悲しそうに話しました。ちらっとその手元を見ると、ノートには「WOMAN」と2回書かれていて、その下に小さな丸をたくさん重ねた絵のようなものもありました。花か、ザクロの実のようにも見えました。乳がんと聞かされた思いとその言葉が無関係ではないように感じられて、とても悲痛でした。同時に、ここは非情で、腐り切っていて、許すことのできない場所だと改めて怒りが込み上げました。
面会終了間近、Jさんが私に向かって「韓国の人なんですか?」と聞きました。私は「リエ」と名乗った程度で、言葉も日本語ネイティブなのに…驚きました。「なんで分かったんですか? 在日朝鮮人といって、日本で生まれて育ったコリアンのことなんですけど、そうです」と返すと、「目とか顔の形で分かるよ」。
私は今まで、どちらかというと「在日っぽくない顔だね」「日本人みたいな顔立ちだね」と言われる方が多かったので、当ててもらったことがなんだか嬉しかったです。でも、せっかくこんな交流ができたからこそ、このような場で会ったことがやるせなくて仕方ありませんでした。
かのじょはこれからどうなるのか。外に出たら出たで、医療費をはじめとする生活は一体…。「入管の中で死んでほしくないから。死ぬ病気だから外に出す」とメルバンさんは言っていましたが、本当に死んでしまうのでしょうか。だとしたら、どうしてこんなに重大な話が社会で大きく問題視されないのでしょうか。誰だか分かりませんが、収容や仮放免を決めるどこぞの人間はなにを見てなにを考えているのでしょうか。
Jさんは部屋をあとにする際、織田さんには「ありがとうございました」と、私には「カムサハムニダ」と言ってくれました。
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やはり長くなってしまったので、残る3人の話は次回の私の更新日にまた書きます。詳細はまだ不明ですが、3月2日には織田さんが収容者の家族と一緒に東京入管の問題を社会に訴えるための記者会見を開く予定とのことで、できればこのことも合わせて書けないかと考えています。また、イオでも5月号か6月号くらいから短期連載で東京入管と難民について紹介したいと思っています。(理)
●SYI(収容者友人有志一同)→https://pinkydra.exblog.jp/
SYIは現在、メルバンさんを早急に解放するようFAXや電話で入管に訴える運動を地道に行っています。
東京入管:FAX(03-5796-7125)、電話(03-5796-7111)