東日本大震災から7年、当時をふり返る
広告
11日の日曜日は、東日本大震災から7年目に当たる日だった。各テレビ局ではそれにまつわる特別番組をやっていて視聴した。当時のことを思い出して書きたいと思う。
東日本大震災は、東京でもものすごい揺れがあった。人生で体験したもっとも激しい地震だった。
7年前の3月11日、月刊イオは以前の事務所でビルの3階にあった。午後2時46分。揺れがあったとき、ちょうど編集会議の最中だった。突然の揺れにビルが崩れるのではないかという恐怖だけで何もできず。しばらくして、大きな余震が起こったときにはたまらず、ビルの外に避難したのだが、その判断が良かったのかどうかはわからない。揺れの大きさから、てっきり関東が震源だと思っていたのに、東北だとニュースで知り驚いた。東北地方の被害が予想以上で愕然となったが、被害の大きさがわかったのは後の話。
地震発生時に行っていた編集会議は月刊イオ5月号の担当を決めていたところだった。予定していたチョゴリの特集を地震の特集に切り替えるのだが、それも週があけてからのことだ。
地震当日、東京でも電車がすべてストップした。携帯電話も通じず、家族と連絡を取ろうとするがなかなかとれない。しかし、なぜかツイッターで連絡が取れて、集合場所を決める。通勤通学で使う私鉄の息子の学校から近い駅に集まることにし、会社を5時ごろ出てひたすら歩いたのだった。道路は同じように歩いて帰宅する人で溢れていた。あの日、イオ編集部でも(相)さんが会社に泊まらざるをえなかったが、下手に移動せずとどまるのが正解だったのかもしれない。朝鮮学校に通う子どもたちも、多くが学校で宿泊したようだ。
2時間ほど歩いてようやく家族と落ち合うことができた。あの時の安堵感は忘れることができない。そこから自宅まで帰るのにさらに時間がかかったが、それでも12時ごろには無事に帰宅できたのはラッキーだった。
電車は1週間ほど混乱したと思う。最初は最寄り駅まで電車が来ずに、3駅先まで自転車で向かっていた。朝鮮学校も何日か休みに。余震は4月に入っても続いていた。
震災についての特集を改めて立て、週があけた月曜日に(相)さんが被災地に入った。震災の特集は、5月号、6月号と2号続けて掲載することとなった。当時、私自身は被災地に入らずに他の部員に取材を任せたのだが、今も少し後悔している。人生の中で東日本大震災は最大級の出来事のひとつだ。少なくない在日同胞が犠牲となり東北の朝鮮学校も建て替えなければならないなど同胞社会にも甚大な被害があった。7年が過ぎたが今後も追い続けなければならない問題だと思っている。
原発事故が起こったので、原発の専門家のインタビューも2号続けて掲載した。地震や津波で破壊された建物などは何とか復興できるだろうが、原発事故による被害の復興は、これから何十年、何百年とかかるのだろう。
いま日本社会は森友学園への国有地売却の決裁文書の改ざん問題で大きく揺れている。韓国でのキャンドルデモのようなことが日本でも起こるのだろうか。それほどの問題だと思うのだが、どうだろうか。政治家が起した問題も、原発事故とは違って修復可能だと言える。(k)