朝鮮と出会う旅・石川編(1)
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2018年の最終号となる12月号の特集は「朝鮮と出会う旅」。
日本各地の朝鮮半島とゆかりのある土地を旅するという企画だ。私は石川県を訪れた。
朝鮮東海(日本海)に突き出した能登半島は古くから交通の要所として栄え、歴史的に朝鮮半島との交流も盛んだった。
自身3度目の石川行だが、仕事で訪れるのは初めて。今回の石川紀行は11月中旬発行の本誌12月号で紹介するが、本ブログでも数回に分けて掲載したい。
東京から北陸新幹線で石川県の県庁所在地である金沢まで2時間半。週末を控えた金曜日の金沢駅前は内外からの大勢の観光客でごったがえしていた。
最初の目的地は、かつて渤海(698-926)の使節団が来着した福浦港(羽咋郡志賀町)。
金沢駅からJR特急で羽咋駅まで32分。駅がある羽咋市は能登半島の西の付根に位置する、いわば半島への入り口的な場所だ
羽咋駅から1時間に1本のバスで港を目指す。バスに揺られること30分、それからタクシーに乗り換えて20分ほど走る。やっと港へ到着した。
目の前に昔ながらの漁港の風景が広がる。
福浦港(かつては福良津と呼ばれていた)の歴史は古い。上でものべたが、698年から926年まで(日本でいえば奈良時代から平安時代にかけて)朝鮮半島北部から中国東北部にかけて栄えた渤海からの使節団が来着する寄港地として定められていた。江戸時代には北前船(大阪と北海道を日本海回りで往復していた船)の寄港地としてにぎわったという。
渤海使は728年から922年まで約200年の間に36回(回数は諸説ある)、日本から渤海への使節は728年から811年まで14回往来したといわれている。現在のロシア沿海地方のポシェット湾から船が出発し、北陸の福良津(現福浦港)、三国湊(現福井港)、大野湊(現敦賀港)などに着いた。
ここ福浦港の周辺には渤海からの使節団のための宿舎(能登客院)や船の修理施設がつくられたといわれているが、その跡地は見つかっていない。
港を望む高台には渤海使節来航の碑が建てられている。その近くには、現存する日本最古の木造灯台である旧福良灯台がある。約390年前にたかれたかがり火が始まりと言われ、現在の灯台は1876年に建設されたものだ。1952年に新灯台が出来るまで76年間も現役だったという。
高台に立ち、眼前に広がる海をながめる。渤海使は日本へ毛皮やハチミツ、薬用人参、仏典、陶器、工芸品などを持ち込み、日本からは絹、綿、黄金、水銀、扇などが渤海にもたらされたという。海の向こうの朝鮮半島に思いをはせながら、朝鮮半島と日本との交流の歴史が織りなすロマンに胸躍らせた。
福浦港に別れを告げて、山道をさらに北上する。道の左側には能登金剛と言われる海岸線が続く。能登金剛は日本海の荒波によって浸食された奇岩、断崖が約30kmにわたって連続する海岸で、能登半島の代表的な景観の一つ。能登金剛という名前は、朝鮮半島の景勝地・金剛山(所在地は朝鮮民主主義人民共和国の江原道)にちなんでいる。
初めに見えてきたのは、鷹の巣岩。そして次に、能登金剛の代表的な観光スポットである巌門。海に突き出た岩盤にぽっかりとあいた洞門がインパクト大だ。
夕陽をバックにした写真を撮れるかと期待していたが、あいにくの曇り空で夕陽など影も形もない。
時刻は日没直前。とりあえず巌門周辺の写真をあわただしく撮り終える。さらに先のほうまで足を伸ばせるかと思ったが、日が沈み、あたり一面真っ暗に。無念のタイムアップ。この日の取材はここで終了となった。(相)