朝鮮と出会う旅・石川編③
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「朝鮮と出会う旅」をテーマにした石川・能登半島紀行の報告も今回で3回目。
福浦港・能登金剛、神社巡りに続く3日目は、七尾湾内に浮かぶ能登島に朝鮮半島式の古墳を訪ねた。
石川県内では朝鮮半島と関係のある古墳がいくつか発見されているが、能登島の南に位置する須曽蝦夷穴(すそえぞあな)古墳もそのうちの一つ。
前日、神社巡りをした後(前回のエントリを参照)、和倉温泉駅近くの古びたビジネスホテルで一泊(温泉街の中の高級旅館ではない)し、翌日は古墳へ向けて午前中の早い時間から動くことにした。
古墳のある能登島へは能登島大橋を渡ってから行く。能登島大橋は全長1050m、石川県でもっとも長い橋だという。
移動手段としてはレンタカーがもっとも適しているのだろうが、ペーパードライバーになって久しい筆者は車を断念。かわりに、地元の観光協会のレンタルサイクルを利用することに。たいした道のりではないだろうと勝手に想像し、前方に荷物かごがあるギア付き自転車(いわゆる、ママチャリ)をチョイス、職員にその旨を告げた。目的地を聞かれたので「能登島まで」と答えると職員の表情が一変、「アップダウンきついですよ」と言外に電動アシスト自転車を勧めてきたが、なぜかそのままママチャリを選択し、いざ出発。
しかし出発して10数分、橋の入り口に立った瞬間、自らの決断を後悔することになった。橋上からの景色はすばらしかったが、橋の傾斜は自転車で進むにはかなりきつい。
能登島に入ってからもアップダウンはさらに続いた。仮に電動アシスト自転車であっても結構きつかっただろう。全身の筋肉をプルプルと震わせながら周囲長およそ72kmの島中を進む。
自転車で橋を爆走し、山道を登ること約1時間。標高80メートル、七尾湾を見下ろす丘陵に国史跡・須曽蝦夷穴古墳はあった。
古墳の前にたてられた解説板には次のような説明が書かれていた。
須曽蝦夷穴古墳は古墳時代の終わり頃(7世紀中頃)に築かれた有力者の墳墓である。
墳丘は、東西約18.7m、南北約17.1mの方墳で、正面の墳裾に低い石積みを巡らした典型的な終末期古墳の様式をもつ。
一方、墳丘内部には付近の海岸から運んだ安山岩板石で一対の墓室(横穴式石室)が造られ、横幅の広い奥室(玄室)やドーム形に持ち送る天井など、朝鮮半島の墳墓に通じる特色を備えている。
このような石室をもつ終末期古墳は他に例を見ず、日本の対外交流史を考えるうえでもきわめて重要な古墳である。
説明板にある「朝鮮半島の墳墓に通じる特色」というのは、日本の古墳には例が少ない高句麗式の構造を備えているということらしい。墓の内部からは銀象嵌装飾の刀装具をもつ大刀や、朝鮮半島で例の多い特殊な鉄斧(ほぞ孔鉄斧)などの副葬品が出土したという。
古墳のある丘から七尾湾を見渡す。眺望の説明板にはこう記されていた。
古墳の前方には、石室に使われた安山岩の露頭がある一本木鼻岬が見え、正面には波静かな七尾南湾、その向こうには七尾市街や背後に横たわる石動山系の山々が臨まれる。
蝦夷穴古墳が造られた頃、湾岸で暮らす人々は稲作とともに漁や塩つくりを生業とし、七尾湾を活発に往来していた。また、当時七尾付近には鹿嶋津と呼ばれる港が営まれ、北方へ向かう海上交通の拠点でもあった。東北支配をねらう大和政権の意図により、湾岸の人々は時として水軍の一員に加えられ、北の海に向かったものと思われる。こうした能登の海人たちを統括していたのが、須曽蝦夷穴古墳に葬られた人物であろう。
ちなみに、墓が構築されたのは古墳がほとんど作られなくなった7世紀中頃とされ、被葬者はわかっていない。
一体どんな人がここに埋葬されたのだろうか。そして、昔の人々はこの丘からの風景をどのような思いでながめたのだろうか―。
周囲に観光客は誰もいない。時おり吹く風の音しか聞こえない静寂の中、しばし時がたつのを忘れてそのようなことをつらつらと考えた。
これまで3回にわたって続けてきた石川紀行も次回のエントリでラストになる。(相)