朝鮮と出会う旅・石川編④
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イオ2018年12月号特集に掲載された『朝鮮と出会う旅』の拡大版をブログで3回にわたって続けてきたが、4回目の今回が最後になる。
金沢から羽咋→福浦港→能登金剛→七尾→能登島ときて3日目の晩に金沢へ戻ってきた。
金沢は紅葉の直前の時期だった。
4日目は、金沢市内の野田山墓地へ朝鮮の独立運動家・尹奉吉(1908-32)の暗葬跡地を訪ねた。
尹は、日本の植民地支配に抵抗し、1932年4月29日、中国・上海での日本陸軍の式典で爆弾を投げ、日本軍将校らを死傷させた人物。上海新公園(虹口公園)で爆弾を投げた尹奉吉は直ぐに逮捕され、上海派遣軍軍法会議で死刑の判決を受け、日本に移送されると大阪陸軍衛戍刑務所に収監された。その後、金沢に移送され、12月19日に第九師団三小牛作業所で銃殺された。遺体は野田山陸軍墓地と一般墓地との間にある、一般人が往来する通路に「暗葬」された。金沢に連れてこられたのは、上海派遣軍の主力部隊だった第9師団が金沢に駐屯していたからだ。
1945年8月15日、朝鮮が解放されると、尹の遺体は在日本朝鮮人連盟(朝連)所属の同胞らの手によって翌46年3月、処刑後13年ぶりに発掘され、祖国へ帰った。
その後、1992年に故・朴仁祚さんら有志によって暗葬の跡地が整備され、尹奉吉義士殉国祈念碑も建てられた。
現在は尹奉吉義士暗葬地保存会の朴賢沢さん(74)が跡地の保存・管理を行っている。朴賢沢さんは故・朴仁祚さんの親族だ。この日、雨の降りしきる中、貴重な史料を駆使した詳細な解説つきで跡地と祈念碑一帯を案内してくれた。
恥ずかしながら、尹奉吉が金沢の地に眠っていることを今回初めて知った次第だ。
そして、石川への旅の締めくくりとして玉泉園を訪れた。
玉泉園は、日本三大庭園(日本三名園)にも挙げられるかの有名な兼六園のすぐ隣にある。なぜここを旅の最後の目的地として選んだのかというと、玉泉園を造った脇田直賢(1586-1660)という人物が、今から420年前に朝鮮半島から連れてこられ、加賀藩で金沢町奉行にまで上り詰めた数奇な運命の持ち主だということを地元新聞の記事で知ったからだった。
脇田直賢の幼名は金如鉄という。現在の韓国・ソウル市に生まれた。7歳のころ、「壬辰倭乱」(豊臣秀吉の朝鮮侵略)で父親が戦死。如鉄は秀吉の家臣・宇喜多秀家によって岡山に連れてこられ、その後、金沢の前田利家のもとへ移ってきた。前田家に育てられた如鉄はやがて前田家の二代目藩主・利長の家来に。それから家臣の脇田家に婿入りし、直賢を名乗るようになったという。
当時、秀吉の朝鮮侵略の際に捕虜として日本へ連れてこられた朝鮮半島の人々は少なくなかった。陶工の話は聞いたことがあったが、脇田直賢については今回初めて知った。
玉泉園には立派でひときわ目を引く朝鮮五葉松がある。これは、故郷をしのぶため、直賢父子が朝鮮半島から苗木を取り寄せて植えたものだと伝えられている。
直賢は晩年、名前を如鉄に戻したという。海を越えた異郷・金沢での暮らし。直賢の胸にはどのような感情が去来したのだろうか―。直賢が植えた朝鮮五葉松を見上げながら400年前に思いをはせてみた。
ちなみに、玉泉園は現在、脇田家の手を離れて売却され、西田家の手に渡っている。
今回をもって、「朝鮮と出会う旅・石川編」のブログ連載を終えたい。お付き合いいただきありがとうございました。(相)